高山紀齋の生涯(同窓会報第398号より)

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帰国と開業

 1878年アメリカ歯科医術開業試験に合格をして大きな目標とフロンティア精神をも学び帰国をしました。
 「内外科」として医師免許をとり1879年(明治12年)銀座(現在では松屋の裏あたり)で高山診療所を開設しました。そのとき医者としてふさわしい名前に改め彌太郎から高山紀齋と名乗るようにしました。
 明治8年歯科医第一号は横浜で開業していたアメリカ人のエリオットに教えを受けた小幡英之助でした。当時は歯科という分類はなく明治12年に初めて口中科から歯科が使われました。明治14年外国帰りの弁護士で作州勝山藩の鳩山和夫と森山茂(元老院大書記官太政官御用係)の娘愛子との結婚で競いみごとに勝利,言うまでもなく鳩山家はその後一郎,由起夫と二人の総理大臣を排出する名家です。
 そして弁護士よりも歯科医の方がよいと世間に認知された証でした。
愛子の弟 森山松之助は後に同い年の血脇守之助が高山歯科医学院に入学するか小幡英之助の門弟となるか選択するときに関わってきます。また旧水道橋病院の設計に携わった人です。
 1884年~1900年(明治17年~33年)には東京医術開業試験委員,1885年(明治18年)歯科界代表として大日本私立衛生会医学科審事委員を務め歯科の社会的認知の向上に貢献しました。
 1886年(明治19年)小松宮彰仁親王を拝察,1889年(明治20年)侍医局勤務をまかされ皇族関係者の拝察に携わりました。
 それと同時に高山診療所も盛況で各種委員を務めかなりの報酬を得ていました。
 また試験委員をやり当時の歯科医を目指す者の知識と技術の低さに痛感させられ,まだまだ日本の歯科医療はレベルの低いことを思い知った高山はますます高い技術と知識を持った高貴な歯科医を育成しなければと強く思いました。

高山歯科医学院の設立

高山歯科医学院

 1890年(明治23年)芝区伊皿子坂の住居に隣接する元スペイン公使館の跡地1,015坪を8,500円で買収し1,000円で設備等を揃えました。当時の警察官の初任給が8円程度であるからとてつもない費用をすべて私財でまかないました。高山の理想は高く学則に「欧米歯科諸大学の高尚で適切な科目を範として我が国の歯科の程度を考慮し最高の歯科医術を修練し高尚なる歯科医を養成する場所」と掲げています。創立当初はアメリカでも教育期間を2年から3年にというときにいきなり4年制を掲げていました。
 高山の目指す近代歯科教育のレベルの高さが伺えます。

高山歯科医学院講義録

 ところが,そうはうまく行かず生徒200名で採算が取れるはずが9名しか集まらず,やむをえず2年制とし講義録を作り販売,院外生を集めるようにしたところ250名まで増加しました。今でいう通信教育のようなものでした。それでも学院の経営は苦しいものがありましたが引き続き私財をつかい理想に向かい世の中の歯科医のレベルをあげるため「保歯新論」を一般国民の公衆衛生の向上を目指し「歯の養生」発刊しました。明治24年には4名の歯科医術開業試験の合格者をだしカリフォルニア大学歯学部で学位を取った片山敦彦に二度目の留学から帰国すると最新技術と知識を教えるために教鞭をとらせました。そして明治26年血脇守之助が入学をしてきました。
 片山敦彦は血脇の歯科医の道へ進むきっかけを作ったドクターの田原 利と留学先が一緒で顔見知りでした。それゆえ田原は血脇の歯科医への相談のため片山を紹介しました。

第1回院友会開催と歯科界への功績

 1895年(明治28年6月16日)血脇の提言で高山歯科医学院の同窓の交流と歯科医学の向上のため高輪万清楼で第一回院友会が開催されました。
 同10月には同窓会報の起源である歯科医学叢談第一号が発刊されました。
 1893年(明治26年)高山紀齋,伊沢道盛,小幡英之助を発起人として歯科医会が発足しました。また同年政府より臨時博覧会評議員に任命され英文の「高山歯科医学院の過去及現在の状況」という小冊子を提出その功績により米国政府と米国歯科医学会から賞牌が授与されました。また同時に開催された万国歯科医学会で名誉会頭として演説をし,高い評価を受けました。1896年(明治29年)勲六等単光旭日章を賜り大日本教育会会員,日本体育会名誉賛助員,日本尚兵義社特別社員,日本赤十字社特別社員などの会員に推挙されていました。これらから高山の歯科教育界においての評価は確実なものとなり,1900年(明治33年)パリで開催された万国歯科医学会名誉会頭に選出され名実共にその名は日本だけでなく世界にも届きました。
 明治29年に歯科医会は日本歯科医会と改称され,その後教育から歯科医の地位の向上と歯科医の団結のため1902年(明治35年)日本歯科医会の初代会長を引き受け同時に付設機関として歯科医学会を発会させました。1903年(明治36年)日本歯科医会は発展的に解散し新たに大日本歯科医会(日本歯科医師会の前身)を創立し会長職を1906年(明治39年)に辞任しました。歯科医師会組織を全国組織に規模を拡大した功績は大きく明治43年に東京歯科医学専門学校の庭に銅像が建立されました。
 1900年(明治33年)50歳になった高山はすばらしい経営手腕をもつ血脇守之助に学院を譲渡したのち歯科教育現場から退き臨床医として診療活動を続け,ときには皇族,政治家など有名人の診察に当たり1933年(昭和8年)82歳という長寿をもって他界しました。葬儀は学校葬として東京歯科医学専門学校の中央ホールにて盛大に営まれました。

平成10年2月本学によって設立された
「歯科医学教育発祥之地」の碑
(東京都港区三田4丁目伊皿子交差点角地)

 幕末,明治,大正,昭和と激動の時代を生きた高山紀齋の最大の転機はアメリカに渡り自身が受けた最高の治療に感動し恩師ヴァンデンボルグのような気品ある歯科医師を目指すことに始まり,同時にサンフランシスコで体験した西部開拓者のフロンティア精神によって日本で最初の近代歯科医療教育機関を設立し歯科治療の発展と歯科医の地位の向上を成し遂げました。今日の歯科医学界が存在するのは高山紀齋の功績が多大である事は疑う余地がありません。最後に高山と同じようにヴァンデンボルグに師事し,高山歯科医学院の講師でもあった一井正典の伝記「青雲遥かなり」を読んでこんな言葉が心に残りました。
 「It all started with a toothache!(すべては歯痛に始まる)」

(広報委員会委員長 臼田  準)

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