高山紀齋の生涯(同窓会報第398号より)

高山イズム血脇イズム

高山紀齋先生

 昨年同窓会創立120周年記念準備委員会ができそのテーマを決める際に「高山イズム,血脇イズムとは何か」ということから始まりました。
 学生時代から今まで耳にしたことはありましたが真剣に考えたこともありませんでした。また,大学の起源や同窓会がどのように設立されたのか全く興味もありませんでした。おそらく多くの皆さんもそうでしょう。
 歯科大学に入り歯科医師となり普通に診療を行い歯科医師会等にも参加してきました。そこで他大学の方から「東京歯科の卒業生はどこか違うね」とよく言われてきました。そのことがずっと気になってはいました。ちょうど良い機会だからそのルーツについて少し考えてみようと思いました。
 そもそも120年以上の歴史をもつ歯科大学なんか他にないのですから。
 歯科医という言葉が使われたのが明治の初期で,それまでは口中医,入歯師,香具師と呼ばれる人たちが口腔内の治療を行っていました。その治療法と言えば歯を抜いて入歯を入れることや,ただし入れ歯を入れられるのはごく限られた高貴な方のみで,炎症により発熱等があれば漢方による治療でした。
 そんな時代に近代的な歯科治療や歯科医師という職業を世間に認知させ,またその歯科医師を育てる教育機関を設立した人こそ高山紀齋その人でした。
 そこでまず高山紀齋がどのような生涯をおくったのか調べてみることにしました。

備前岡山に生まれる

 1850年(嘉永3年)に現在の岡山城の南にある小橋町,国清寺の南『花畑』に生まれ高山家は家老日置帯刀(ひきたてわき)の家臣として槍術で仕えました。(岡山県支部の「東歯同窓会岡山の歩み」ではこのようですが東京歯科大学創立120周年記念誌では作廻方(さくまいがた)となっていますが本当はどちらかわかりません)
 幼名を彌太郎と言い武術と学問にも優れていて藩校を代表して主君のまえで春秋左氏伝(孔子の歴史書である春秋の注釈書)を講じ賞を賜わったそうです。
 あの福沢諭吉も何度も読み返し暗記をしたそうです。
 岡山藩は32万石の外様大名で親藩(徳川男子系子孫)の会津藩でさえ23万石で御三家の水戸藩でも35万石で徳川時代外様でも大きな藩の一つでした。
 藩祖は池田光政で池田家は織田信長,豊臣秀吉,徳川家康と三代に仕える名家で光政は教育熱心な藩主でいち早く藩校を作り,藩士と当時としては珍しく藩民まで学習ができる体制を作りました。しかも徳川幕府が開いた昌平坂学問所より21年も前のことでした。いかに岡山藩の教育程度が高いレベルであったかが伺えます。
 藩祖池田光政は陽明学者でしたが藩では幕府が推奨する朱子学を教えていました。高山は藩主の教育係主任の叔父である磯田軍次兵衛(磯田由道)に儒教を学び武術は,真陰流の剣を修め文武両道の少年でした。磯田由道は東京歯科大学創立120周年記念講演の講師で,歴史学者でも有名な磯田道史氏の五代前の先祖でした。
 徳川幕府は政権を維持するため朱子学を奨励しました。なぜならその教えは階級制度と忠義の精神を重んじ理論一辺倒で官僚社会に向いている学問で国を治めるには都合が良いからでした。一方陽明学はさらにそれを実践するという学問でこれは一歩間違えると国を滅ぼす懸念がありました。明治維新のエネルギーはこのような学問から生み出されたのではないかと思います。

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