平成26年10月12-13日の連休で第79期会が南の地,鹿児島県は砂蒸しで有名な指宿にて開催された。あの1964年東京オリンピックの開会日が10月10日に決まったのはこの時期天気が安定するということがあったようである。そして参加者誰もが好天を期待していた。
前回平成24年1月東京で開催された時,次回開催は九州でと,そして幹事は鹿児島の内田君と熊本の津田さんと決定,以来両君の企画のもと鋭意準備が進められてきた。会場は指宿白水館,あの小泉前首相も絶賛したという,また,おもてなし度全国1,2位を争うすばらしい宿での開催と聞き,皆心待ちにしていた。ところが前週の台風18号に引き続き19号がなにやら日本列島をうかがう様子。人工衛星が捕らえたくっきりとした台風の目として話題に上り,今年最強の台風と予想されたその19号が当初の予想より西寄りのコースをゆっくり進み,九州南部を直撃する模様。
さあどうするかと皆が考えたのは当然のことであった。早々キャンセルと決断した者もいたが,我々は兎に角出発することにした。羽田で搭乗したが,着陸できなければ引き返しの条件付きであった。飛行の間さほど大きな揺れはなかったものの,鹿児島空港着陸時,体が一瞬ふわっと浮き上がるほどの落下が有り一瞬ひやっとした。レンタカーを借り宿へ着き,そんな話をしたら,着陸に一度失敗し,やり直しの間気流の安定するまで30分上空で待機という飛行機で来たものもいた。2度目に失敗したら羽田に引き返しというアナウンスが流れたとのこと。当初の予想より台風の進路がゆっくりだったため,前日現地に何とか到着したが帰ることが出来なくなることを心配し,折角来たものの仕方なく宴会当日午前中で帰った者,当日途中まで来たものの行き着ける手立てがなく仕方なく引き返した者。一方天候にもめげずゴルフをした者。色々でした。しかし,30名はしっかり宴会に参加し,2年半ぶりの旧交を温めた(集合写真)。
宴会の席順は当時の出席番号順ということになった。四十数年前のことではあるが,さすがに自分の番号は覚えて?おり,すんなりと着席順は決まった。会は津田さんの司会のもと,会長大塚君の開会宣言に始まり,乾杯の後,同期の中で大学をこの春退任になった水口清,有末眞,間滋夫3君それぞれが長年の研究,臨床,大学運営などについて短い時間ではあったが興味深い話を語ってくれた。美味しい料理と鹿児島ならではの芋焼酎に舌鼓をうち,和やかな中にも熱く会は進んだ。やはりこの年になると話題は昔のことに向かいがち,誰が言い出したか,ある逝去会員のことが話題となった。これをきっかけに各逝去会員と親しかった会員から順次彼らとの色々な思い出やエピソード,家族の近況等が報告された後,全員による黙祷が捧げられた。宴会場では当地の踊りが披露されたり,内田君が役員を務める若潮酒造の芋焼酎破格即売会があったり,焼酎や知覧茶等の景品目当てのくじ引きに興じている間に予定の時間はあっという間に過ぎていった。そして最後に記念撮影を行い,お開きとなった。
今回は内田君の地元鹿児島での開催ということで,彼の幅広いネットワークにより,ひとかたならぬご尽力を頂いた。参加者一同感謝の念でいっぱいだ。
今回は台風のため,指宿,知覧,鹿児島,志布志観光など,すべてふいになってしまったがぜひ,もう一度訪れてみたいものと思っている。
また,白水館に隣接する薩摩伝承館には幕末から明治維新にかけての貴重な資料や薩摩焼,薩摩切子等の工芸品,骨董が多数所蔵されているので同窓諸兄におかれましては,ぜひ足を運ばれることをお勧め致したい。
(翌日譚)我々が宴会やっているその頃,台風は当初の予想より更に遅れ,その中心は刻々と九州南部に接近していた。そして,翌13日午前8時半頃枕崎に上陸した。飛行機は昼過ぎまでは欠航が決まっていたが,まだ九州新幹線は動いているかもしれないと早朝タクシーで鹿児島に向い,出ていったグループもあった。そして今新幹線に乗って動き出したというメールがはいり,取り敢えずは一安心。その間19号は東寄りの進路をとり,指宿のやや北を通った模様であった。午前10時頃,宿に残った我々の頭上には突然晴れ間が現れた。台風の目だ。午前10時半頃,北東の空に何となく丸い楕円形の青空が見てとれた。波は相変わらず岸壁に打ち付けて立木を超える高さの水の壁をつくっていた。
こうしてみると最初から最後まで台風とおにごっこのクラス会であった。記憶に残るクラス会になるのは間違いないであろう。
(篠塚 光久,佐藤 裕 記)