血脇守之助が三条に滞在しなかったら東京歯科大学の血脇守之助は無かった(同窓会報第397号より)

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 明治29年1月,久しぶりに医師・田原が守之助を訪ねて来た。守之助の懐具合を察した田原は,何をやるにも資金が必要なのだから,全国を回って診療をやるように忠告した。守之助が私がやりたいのは歯科治療ではなく,この学院で歯科医育について十分研究することだと言うと,田原は,それなら学院の夏季休暇中,僕の米国留学中の同窓の友人で会津でやっている医師・渡部鼎を紹介するから,そこで出張診療をやってみないかと勧めた。会津若松で開業する医師・渡部の会陽医院の向かいの旅館の一室で,出張診療をやった。渡部家の玄関座敷には,いつも頗る風采の上がらぬ青年がいた。その青年こそ野口清作(後の英世)で20歳であった。

野口英世

 野口清作(英世)は明治9年(1876年)11月福島県耶麻郡三ツ和村(現・猪苗代町)に生まれた。1歳の時囲炉裏に落ち,左手に大火傷した。小学校では成績優秀であり,それを知った小林栄教頭は,自ら学費を援助して猪苗代高等小学校に清作を通わせた。高等小学校でも体操以外の成績は首席であった。明治24年不自由な左手を治すため医師・渡部に手術をしてもらった。手術は成功し,これに感激したことが医師を目指すきっかけとなった。高等小学校を卒業すると,手術をしてくれた渡部の会陽医院で,書生として働き勉学に励んだ。
守之助は野口の身の上と,高い志で医学原書を熱心に読む,その非凡さと根性に驚嘆し,「いつの日か東都遊学の際には立ち寄りなさい」と,軽く励ますつもりで声を掛けた。
11月3日の天長節の祝賀式が終わり,守之助が自室で休息していると,野口清作という青年が面会を求めて来た。話を聞くと,9月に上京して医師開業前期試験に合格したが,金もなく,居場所もないので,学院の俥夫にでも使って欲しいということであった。院長高山に書生として置くことの了承を得ようとしたが,よい返事はもらえなかった。しかたなく,そっと寄宿舎に忍ばせて置くと,やがて,玄関で鐘を鳴らすなど雑務をしながら学僕になった。
ところが間もなく,野口と同い年の石塚三郎という青年が高山歯科医学院への入門を願い出た。野口という重荷を背負い込んだばかりの守之助が,了承などできるはずもなかった。

石塚三郎

 石塚三郎は,明治10年9月新潟県北蒲原郡安田村保田に生まれた。家は貧しかったため,13歳で地元の素封家である籏野家(当主は餘太郎,吉田東伍博士の長兄)に奉公に入った。そこで当主餘太郎から英語,漢詩文などを学び素養を身に付けた。

野口英世と石塚三郎

野口英世と石塚三郎
(大正4年10月撮影)
岩越鉄道(現JR磐越西線)・野沢駅にて

 歯科を志して上京した石塚は,守之助に何度断られても執拗に頼みに通った。その甲斐あって,明治30年4月採用通知を受け,学院の書生として玄関寄り付きの四畳半の部屋で野口と起居を共にし,受付,会計係として働きながら歯科医学を学んだ。野口と同じような生い立ちであったことから,二人は肝胆相照らす仲となり,その思いは生涯消えることはなかった。
その後,野口は守之助から毎月15円の援助を受け,済生学舎に学び,明治30年21歳の若さで医師免許を取得した。高山歯科医学院,北里柴三郎の伝染病研究所,横浜検疫所に勤めたのち,明治33年の末,米国に渡りロックフェラー研究所などで黄熱病,梅毒などの研究で多くの成果を上げ,世界的な細菌学者となり帝国学士院から恩賜賞が授与され,何回かノーベル賞候補になった。昭和3年(1928年)11月,黄熱病の研究中アフリカで殉職した。
石塚は歯科医術開業試験に合格すると,高山歯科医学院の講師や幹事を務めた。また昭和3年から2期,歯科医師初の衆議院議員として活躍し,歯科医師法の改正に大いに尽力するなど,守之助をよく助け歯科医会の重鎮となった。野口の死後,野口英世記念会の創設,運営に心を砕き,晩年は同会理事長として親友の偉業の顕彰に懸命な努力をした。因みに,西武鉄道グループの元オーナー堤義明は,石塚の娘,恒子の子供であり,吉田東伍記念博物館の隣にある瑠璃光院に石塚と恒子は眠っている。また,石塚はアマチュア写真家としても有名で,その時代の貴重な記録写真(ガラス乾板写真)が先程の博物館にあり,この度の講演会で多く紹介された。同時に,我々同窓がよく目にする東京歯科大学の貴重な写真の原板は,この博物館が所有している。
思いがけず英語教師として三条(新潟)に来たことで,幼くして両親と別れた守之助は,兄または父のような存在となる医師・田原と邂逅した。田原は,予想もしなかった歯科医師への道に勇気を与え,経済的援助と様々な助言をし,昭和15年に亡くなるまで守之助のよき理解者であった。また,医師・渡部の所で野口清作と出会うきっかけを作ったのも田原であった。守之助にとって「何処飛躍の地ならざる」の言葉のように,三条が飛躍の地となり,東京歯科大学の血脇守之助が誕生した。
東京に頼る者もいない野口は,会津若松で血脇守之助と出会い,掛けられた一言で運命が変わった。野口にとって,血脇の持っている幅広い人脈と精神的,経済的支援は絶大であった。特に経済的支援は血脇が学校建設と運営に苦慮しているときに多額に及び,我々常人ではとても考えられない援助は敬服に値する。血脇が野口を最後まで支援し続けた義侠心と気骨は,医師・田原をはじめ,明治の時代の人達が国家建設への熱き思いの発露として,才能ある人には援助を惜しまないという気風であったにせよ,血脇守之助の支援がなければ,絶対に医聖野口英世は生まれていない。

血脇守之助の家族と石塚三郎
(明治36年くらい)
左から広瀬武郎,長男・日出男,石塚三郎,血脇守之助、次男・芳雄,夫人 血脇(旧姓・広瀬)ソデ

 漆黒のような歯科界に,開かれた歯科医育の必要性を痛感し,私財を投げ出して歯科医学院を創設し,現在の濫觴となした高山紀斎と,その志を継いで,黎明期の混沌とした歯科医界の錯綜する難問を解決し,学院を専門学校に更に大学へと,地位向上のために希望の光を与えつづけた血脇守之助。それは守之助が長い間に培ってきた政界,財界,医療界などの人脈と,池田成彬と木下謙次郎が血脇守之助の謝恩之碑文に刻んだ「天資温厚姿度広大頗ル大人ノ風アリ(一部省略)又能ク時務ニ通ジ経済ニ明カニシテ経世家ノ素質ニ富ム人」のように,資質と人徳がなければ成し得なかった。
正に,血脇守之助はこの時代のエスタブリッシュメントであったといえよう。

野口英世・アメリカへ帰国の日(大正4年11月4日)
佐渡丸船上にて,左から渡部 鼎,野口英世,血脇守之助,小林 栄,後ろ中央 石塚三郎

追記
この書簡は,2010年春,発見された守之助・23~24歳頃の直筆の二通の書簡で,吉田東伍記念博物館友の会会員から博物館に寄託されたものである。
これは守之助の三条滞在を示している。
尚,*の写真は,吉田東伍記念博物館所蔵


書簡1 【血脇守之助→米北教校生徒諸君】
明治二十六年四月二十四日

書簡1 釈文

 日を追って暖かくなり、花も散る頃となりました。みなさまお変わりございませんでしょうか。
さて、私、三条町に勤務中は親しく交際していただき、ありがたく存じております。お別れしてからのち一ヶ月ほど、巻町に滞在し、三月中旬に上京。さっそくごあいさつ申し上げるべきでしたが、長年東京を離れていたこともあり、用事が重なり、あちらこちらと奔走しておりました。このためのびのびとなって今日に至ってしまいましたことをお許しいただきたいと思います。
みなさまの前途、将来は望み多い身の上なのですから、御身体を大切にしてつとめ励まれるよう、かげながらお祈りいたしております。

四月二十四日
血脇守之助
米北教校(べいほくきょうこう)
生徒諸君

書簡2 【血脇守之助→鳳気至正雄】
年月未詳

書簡2 釈文

 昨日は多人数で伺い、ご厄介をおかけいたしました。とてもありがたく思っております。間瀬の峠を越え、午後九時に無事巻に着きました。関係ないことですが、お気づかいなく願います。
さて、昨日、はじめてお考えをうけたまわった身で、このようなことをお願い申し上げるのは、とても愚かなことですが、言わないわけにもまいりませんので、申し上げます。
前三条病院長の田原 利氏は、かねてからの私の親友でございます。本年春中より、無報酬で米北教校の学科をご教授くだり、教校も一方ならぬ利益を得ました。同氏が今回当地において開業いたしますので、お手数をおかけして大変恐縮ですが、おついでの時に、お知り合いの人々にお広めいただきたく、名刺一五枚を添え、この事お願い申し上げます。

早々頓首
二十八日 血脇守之助

鳳気至 正雄(ふげし まさお) 殿