血脇守之助が三条に滞在しなかったら東京歯科大学の血脇守之助は無かった(同窓会報第397号より)

血脇守之助が三条に滞在しなかったら東京歯科大学の血脇守之助は無かった(同窓会報第397号より)/阿部晴弘(昭和46年卒)
阿部晴弘(昭和46年卒)

血脇守之助

 新潟県の中央部の信濃川沿いに,金属加工や刃物の町として有名な三条市がある。その街で昨年の9月8日町並み探検隊という市民団体の主催で,「血脇守之助と野口英世と三条」という講演会が,三条市立図書館で開催された。講師は吉田東伍記念博物館の副館長渡辺史生さん・実質的には館長。

吉田東伍記念博物館

新潟県の地図

 この博物館は磐越西線が通る阿賀野市の安田町にあって,吉田東伍博士(日本歴史地理学者,『大日本地名辞書』の著者)を記念して建てられた博物館で,後でお話しする石塚三郎が明治,大正,昭和にかけて撮った三千枚以上のガラス乾板写真と血脇や石塚の資料を多く所有している。
 渡辺さんはこれらの写真や資料を基に,「血脇守之助が歯科医師を目指したことに三条が大きく関わっている。血脇守之助が三条に滞在しなかったら,医聖野口英世は生まれていない」と言い切った。
 血脇(旧姓,加藤)守之助は明治3年(1870年)2月現在の千葉県我孫子市で父・加藤誠之助,母たきの長男として生まれた。明治6年,守之助4歳のとき,母が産後間もなく24歳の若さでこの世を去った。さらに父誠之助も婿養子であったため,加藤家を離縁し,実家に復籍した。幼くして両親を失った守之助は祖父母に暖かく育てられ,明治13年秋,尋常小学校を卒業すると,祖父に懇願して12歳の若さで東京に遊学した。東京英学校,共立学校などで学び,明治22年4月慶応義塾別科を卒業した。遊学中,多くの友人と共に学び語り合ったことは,守之助の人格形成に重要な役割を果たしている。また,後に歯科界のリーダーとして社会的活動をする上で大きな力となった。

血脇守之助の学生時代に交流のあった友人達
  • 池田成彬
    第14代日本銀行総裁,大蔵大臣,商工大臣,三井合名会社・筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)
  • 中條精一郎
    建築家,国民美術協会の会頭長女・百合子は後の宮本百合子
  • 森山松之助
    建築家,東京歯科大学の前校舎を設計,TDC の校章をデザイン,台湾・台北市の現・台北賓館,監察院などを設計
  • 木下謙次郎
    貴族院議員,衆議院議員(当選9回),関東長官
  • 米山梅吉
    貴族院議員,三井信託銀を創立し社長,日本初のロータリークラブ・東京ロータリークラブ創立
  • 高山長幸
    衆議院議員(6期),帝国商業銀行会長,東洋拓職総裁

他にも多くの友人がいる。

 同年4月東京新報社に入社するが,4カ月を経たある日の夕方,窓に掛けてあったランプが落下し金具が守之助の瞼に刺さった。傷が治らず,社に迷惑がかかるため退社し,我孫子の実家に戻って静養した。眼の傷も癒えたある日,友人から,新潟・三条町の米北教校が高給(月給25円)で英語教師として迎えたいという話があると,守之助はそれに応じた。
 明治23年1月,21歳の守之助は真冬の雪国新潟の三条に赴任した。米北教校は真宗の僧侶の機関学校で,地元で唯一の中等教育を施す学校であった。教育熱心な地域の人達から,新進気鋭の英語教師守之助は大歓迎を受け,すぐ家庭教師の依頼がきた。越前屋の離れ座敷に下宿した。

昭和6年10月撮影,守之助が三条での下宿先,越前屋の西沢キチを,38年ぶりに訪ねる。この時,二人は同い年で63歳であった。

 三条に来て1年半が過ぎた明治24年の初秋の頃,下宿の母屋に開院した三条病院の院長で,米国帰りの医師・田原利(とおる)と知り合いになり,酒を酌み交わし米国の国情などを熱心に聞くうちに親しい仲となった。
 明治25年2月突如,宗教学校にはめずらしい学生ストライキが起きた。原因はもう一人の英語教師(松原某)が,間違った英語を教えたことであった。校長と相談して守之助が説得すると,一週間続いたストライキは終息した。ところが,こんどは松原某先生が採点を極度に厳しくしたために,進級,卒業できない子供がかなりの数に上った。守之助の立場はなく,不快の念を抑え切れなかった。この事件は守之助の教員生活に懐疑心を懐かせ,冷静に振り返らせる契機となった。
 ある日悶々とする守之助は下宿に帰ると,友人から英字新聞『ニューヨーク・ヘラルド』紙が届いていた。それを拾い読みすると,眼を射たのは米国・歯科医師の広告文であった。「これは!独立して生計を営める職業でないか」歯科医師について知らなかった守之助は,米国で学んできた医師・田原に,その道に進むことを相談した。
 「これはよい思い付きだ。日本では見る影もない地位に置かれている稼業だが,米国での歯科医の地位は,我が国と比べ物にならないくらい高い。暗夜のような歯科医界を黎明の彼方に救いだせるのは,君のような高潔の士によって初めてなし得られるのだ」と言って医師・田原は直ちに賛意を示し,激励した。守之助は大いに奮い立った。
 明治26年2月守之助は校長に辞表を提出し,少し前に巻町に開業した医師・田原のところに1カ月ほど滞在して,3年余り暮らした新潟を後にした。
 東京に戻ると,本郷森川町に寄寓していた親友の中條精一郎の下宿を訪れ,歯科界入りの説明をすると,ちょうどそこに居合わせた中條の友人で高山歯科医学院,院長高山紀斎夫人の弟・森山松之助が,我田引水になるかもしれないと断りながら,高山歯科医学院を推した。また,米国留学中の盟友池田成彬に紹介された歯科医師・伊澤信平も高山歯科医学院を推薦した。守之助は長くつかえていた胸のモヤモヤが晴れ,高山歯科医学院への入学を決意した。
 明治26年4月,守之助は芝伊皿子町にあった,当時日本で唯一の歯科医育機関高山歯科医学院に入学した。だが学資が足りず,医師・田原の自発的な毎月6円の送金と借金で賄った。入学して間もなく,院長高山の米国シカゴ・万国歯科医会会議の演説原稿を友人とふたりで英文にした守之助は,日頃から守之助の人柄に感服していた院長高山に懇願され,学生ながら学院運営を行う幹事に就任した。重厚,悠揚迫らぬ態度で接する守之助は,年上の講師(榎本積一,遠山椿吉など)や学生たちとますます親密になり,敬慕された。その年の暮れ帰国した院長高山は,その間の守之助の用務処理,学院運営に驚嘆した。
 守之助は歯科医学の習得に精を出し。明治28年7月2年余りで歯科医師の資格試験に合格し,歯科界へのスタートを切った。

(次のページへ) >>