4. 石黒忠悳と血脇の結びつき
4-1 軍医総監石黒忠悳と松本良順
「胡蝶の夢」には石黒直悳(ただのり)も登場します。その自伝「懐旧九十年」巻頭の写真には91歳の本人とその前の机には本人が若い日に書き写したポンペ「医学七科書」44巻がうず高く積まれています。長崎から江戸に戻り「医学所」(東大の前身)の頭取になった松本良順の下で石黒は医学を学びました。また,陸軍でもまた松本良順に従い,軍医制度の拡充に努めました。(松本は初代,第三代の陸軍軍医総監,石黒は第五代です)
4-2 医学界での石黒忠悳(ただのり)
石黒の自伝「懐旧九十年」には「医界の交友」という章があります。「明治の初めより三十年に至るまでの間において,医事衛生につき新たに制度を設けらるる時には長与専斎(内務省衛生局長),石黒忠悳,高木兼寛(慈恵医大創設者,海軍軍医総監),長谷川泰(佐藤尚中の弟子,済生学舎創立),三宅秀(東京大学医学部長,妻は佐藤尚中の次女)らの輩がいつも順番にその私宅に会し,熟議相談の上,原案を作り,討議を重ねて案を練り,それより公の議に付してこれを定めたもので,この輩が殆ど医制の根本の連中であったのです。」石黒らは明治時代の医学界の重鎮だったのです。
4-3 石黒忠悳と歯科
1895年歯科医学叢談(歯科学報,同窓会報の大元)の発刊にあたっても筆頭で男爵石黒忠悳として祝詞を寄せています。なおこの年の8月,日清戦争における軍医総監としての働きにより男爵に叙せられたばかりです。石黒の祝詞の後には池田成彬の祝詞も続き,祝詞の人選には血脇が関わっていたと思います。また血脇守之助が高山紀斎から学院の委譲を受けた際に,三十余名の後援者をお願いしています。この中に賛助員として高木兼寛,また顧問に高山紀斎と共に石黒忠悳,長与専斎の名前があります。そして神田美土代町の青年館で行われた東京歯科医学院開校式の来賓には三宅秀の名前があります。
ちなみに小幡英之助の医術開業試験では,東京医学校の外科担当の赤星研造を試験主任とし,長与専斎校長,石黒忠悳,三宅秀らが立ち合って,わが国で最初の歯科専門の医術開業試験が明治8年4月中旬に行われたそうです。(日本歯科医師会のサイト「歯科医学の進歩と歴史」より)日本最初の歯科医の誕生からこの3人が関係しています。
1906年4月水道橋の新校舎落成式に際しても男爵石黒忠悳,男爵後藤新平の来賓名がありました。また,同年3月歯科医師法が貴族院で審議された際,歯科医師の資格要件の一つである「文部大臣指定の歯科医学校」について審議されました。石黒忠悳(貴族院議員)は「文部大臣指定の歯科医学校は現存しないのではないか」と質問し,文部省専門学務局長は「東京歯科医学院はそれに近い。」と回答しています。東京歯科医学院が「専門学務局長から指定を約束されたも同然である。」(東京歯科大学百年史 P.75)と東京歯科に好都合な答弁を引き出しました。血脇と石黒の関係は強い結びつきがあったと考えます。
4-4 茶人石黒況斎
石黒忠悳は茶人としても活躍していました。号は況斎,況翁です。明治維新により将軍や大名に教えていた遠州流茶道も一時衰退状態になりましたが,石黒況翁の勧めで,小堀家に伝承した茶道を一般に公開相伝する決意をしたということです。この時忠悳は青山南町の土地も小堀家に提供し,石黒忠悳は遠州流茶道でも恩人とされています。
また近代数寄者といわれる茶人の会「和敬会」の一員でした。茶人高橋箒庵もその会の一人で,石黒忠悳とは懇意な関係だったようです。高橋箒庵の日記万象録の記述によれば,「茶人流の親切を以って公私共に能く世話する為に人が集まってくる。石黒男爵の成功は,確かにこの茶人的心入れにあると言えるだろう」と石黒の世話好きを書いています。
高橋義雄(箒庵)は血脇守之助との直接の関係は無いと思いますが,先ほども出た友人池田正彬の三井での先輩,正彬の結婚式の仲人です。また東京歯科医学院の三崎町校地にあった旗本屋敷の持ち主平岡