投稿者「TDC-alumni-koho-hp」のアーカイブ

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2021年8月26日

「同窓会員からの写真投稿ギャラリー」を更新しました。

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(8.5〜17 報告分)昭和20年9月卒・昭和22年卒・昭和34年卒・昭和35年卒・昭和36年卒・昭和40年卒・昭和55年卒の同窓会員が逝去されました。詳細は「逝去会員」欄をご参照ください。

昭和20年9月卒・昭和22年卒・昭和34年卒・昭和35年卒・昭和36年卒・昭和40年卒・昭和55年卒の同窓会員が逝去されました。
詳細は「逝去会員」欄をご参照ください。

(以下、報告日順・8.5〜17 報告分)

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2021年8月2日

「同窓会員からの写真投稿ギャラリー」を更新しました。

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(6.28〜7.19 報告分)昭和22年卒(2名)・昭和23年卒・昭和26年卒・昭和39年卒・昭和41年卒の同窓会員が逝去されました。詳細は「逝去会員」欄をご参照ください。

昭和22年卒(2名)・昭和23年卒・昭和26年卒・昭和39年卒・昭和41年卒の同窓会員が逝去されました。
詳細は「逝去会員」欄をご参照ください。

(以下、報告日順・6.28〜7.19 報告分)

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草創期の歯科界をリードした石塚三郎の日誌に見る「天長節事件」について(同窓会報424号より)

日本歯科医史学会評議員 佐藤 泰彦(昭和26年卒)

1 はじめに

 石塚は、越後北蒲原郡安田村保田(現・阿賀野市保田)から上京し、苦学生として高山歯科医学院(現・東京歯科大学)に学び、歯科医師として草創期の歯科界をリードし、国政にも参画、歯科医師の身分を確固たるものに導いた。その石塚が、明治40年(1907)9月24日、新潟県歯科医師会の設立総会において、30歳の若さで新潟県歯科医師会初代会長に推され、就任したその日から4年8ヵ月間、自ら克明に綴った会務日誌・会務名簿・会計簿が発見され当時の歯科界の複雑な内情がリアルに記述されている。それらは 戦時中、保田の生家に疎開させた遺品のなかにあった。明治から大正にかけて石塚自身が撮影した約2500枚のガラス乾板などと共に平成8年夏, 生家の当主・石塚セツ氏が当時の安田町(平成16年に4町村が合併し阿賀野市となる。)へ寄贈し平成9年9月開館した「安田町立吉田東伍記念博物館」が収蔵管理する事になった。その後、東京のご遺族からもガラス乾板約500枚の寄贈があった。

石塚の遺品、日誌・会員名簿会計簿
(吉田東伍記念博物館蔵)

2 新潟県歯科医会設立の経緯

 明治政府は「医制改革」を推進しようとするが、歯科医師の数が少なく、国民の歯科医療の需要に応じきれず、明治18年(1885)3月内務省は各府県単位で「入歯・歯抜・口中療治」営業者取締規則を定め、当分の間、鑑札を発行して需要に応じる事とした。
 新潟県では明治27年(1894)の資料によれば「有鑑札営業者」は20名と記録されているほかは詳細は不明である。
 やがて明治23年、高山歯科医学院が創設され卒業生も増え、明治25年7月、警視庁は東京を中心に「歯科医会」を認可し、11月に設立総会がが開催された。明治29年「日本歯科医会」と改称し、歯科医師の身分と業務の検討が開始され全国組織結成の道筋がついた。この時点で全国会員は127名に増加した。これが新潟県に於ける歯科団体の起源である。
 当時の県下開業歯科医は8名で石塚三郎はこの4ヵ月後、長岡町(現・長岡市)に開業し会員は9名になった。
 新潟県歯科医政史(新潟県歯科医師会蔵)によれば、「中村勇三郎を会長に推し、歯科医業の向上発展を期し,治療料を協定し親睦を諮り、毎年開会すべき事を約し、和気藹々の中に散会せり」と記述しているが詳細は不明である。
 第3回新潟県歯科医会は明治35年(1902)6月5日、石塚三郎の提案で血脇守之助を迎え新潟県に於ける最初の学術講演会を開催した。
 第6回新潟県歯科医会は、石塚のガラス乾板とその包装紙によって新発田町(現・新発田市)に開催されたと考えられる。

3 新潟県歯科医師会設立の経緯

 石塚は、恩師・血脇守之助や榎本積一たちに呼び掛け、新潟県選出代議士・青柳信五郎(眼科医・衆議院議員であった川上元治郎の地盤を継承した新潟県選出の衆議院議員、立憲政友会)に働きかけた努力の結果、明治39年(1906)に「医師法」と共に「歯科医師法」が公布され、歯科医師会を設立することができた。

新潟県歯科医師会設立総会集合写真(吉田東伍記念博物館蔵)

 明治40年(1907)9月24日、第1回新潟県歯科医師会設立総会が高田町後、高田市(現・上越市)の「長養館」で開催された。
 この時の会員は20名、出席者は14名であった。(写真前列左から石塚三郎30歳(長岡)倉地實雄29歳(高田)高野季八29歳(長岡)清水弥五郎26歳(新潟)山本允義35歳(高田)・後列左から来海直治31歳(高田)辻澤俊隆25歳(新潟)塚田二郎34歳(長岡)吉岡熊蔵26歳(柏崎)山田利充54歳(長岡)長谷川友治54歳(新潟)江川鈴弥44歳(高田)竹内清平36歳(新潟)小長谷利助32歳(佐渡)
 欠席者は6名。八百枝康三37歳(三条)田中瀧三郎36歳(見附)永井権吉30歳(長岡)佐藤梅次郎31歳(新發田)真部節24歳(新發田)佐藤太三25歳(新發田)
 石塚は初代会長に推され、その後14年間会長を務めた。設立総会から5年間書き続けた日誌には日々研鑽を主唱し、中央から講師を招き、会員の研究発表を盛んに実施させ、歯科医師会として生活困窮者に無料券を配布するなど厚生関係に力を尽している様子や、薬価治療料を規定したことなどが日誌により解明できた。
 しかしこの頃は、新潟県のみならず全国的に非歯科医(無鑑札者・無免許者)が横行し、設立2年目になると非歯科医問題が増加し執行部は翻弄される。
 第2回総会は明治41年(1908)5月10日、長岡市に開催、議事終了後、来賓・門石長秋が「パイロゾンの試験成績」について講演した。この頃から執行部に対し非協力的な会員が数名いたようである。
 第3回総会は明治42年(1909)5月13日、新潟市のイタリヤ軒で開催された。石塚会長は冒頭、この半年間に非歯科医11名検挙・処分された顛末につき詳細な苦心の報告をし、それらと会員の誇大、捏造、中傷などの新聞広告や情報を日誌に記録し、その時々の新聞記事を貼り付け、一層リアルに記述している。

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