そして多くの若者が上京した ―― 歯科醫學叢談創刊号 ――(同窓会報第400号より)

岡山県支部 広報部

 120年前,同窓会(院友会)の機関誌「歯科醫學叢談第壱号(歯科学報)」が発行されました。院友会は高山一門の結束を目的とし相互の交誼を深め,更に研究機関としての役割も期待されたものでこれを受けて血脇守之助は「近代歯科の価値を広く認識させるには,機関誌の発行が急務である」と提案したと伝えられています。創刊号の発刊の辞には「日清の戦局既に畢(おわ)り旭光燦として万邦に耀(かがや)くの時に際し“歯科醫學叢談”忽然として大東帝国の歯科医界に現る…」と格調高く,祝詞には男爵石黒忠悳,歯科医榎本積一,バチュラーオヴアーツ池田成彬,薬剤師岩本米太郎など政界医界諸方面から祝辞が寄せられていることは,即ち高山紀齋先生の偉大さを示しています。
この創刊号で注目していただきたいのは岡山出身3氏の論文が燦然と紙面を飾っていることです。それは主幹の高山紀齋述「歯の養生」,寺本数衛「普通医諸氏に望む」,瓜生春太郎「歯科医諸氏に望む」の三篇で計11頁にわたり顎口腔器官の重要性とくに歯科衛生について,一般医師に対して歯源性疾患への対処法,そして歯科医師には弛まず自己研鑽をする必要性を説いています。まさに“岡山の三役揃い踏み”とも称される豪華な趣きの第壱号です。

―― 文明開化の潮流と故郷での評判 ――

 渡米中に激しい歯痛に襲われて,バンデンボルグ先生のもとを訪れ治療を受けた高山彌太郎は身をもって歯科医療の有難さを理解し,これがきっかけで苦節8年,邦人で初めてのアメリカ留学帰朝の歯科医師となりました。明治11年4月,28歳の彌太郎は故郷・岡山に錦を飾ります。ところが8年ぶりの岡山は城は荒れ果て失業者は溢れ,経済は停滞……士族が落ちぶれ官員が幅を利かす時代になっていました。しかし,彌太郎は岡山の人々に“新職業”とも言うべき歯科医療の重要性,素晴らしさ,将来性を熱く説きました。そしていかにも医師に相応しい「紀齋」と名を変えて東京銀座で開業しましたが,その隆盛ぶりは故郷岡山でも大評判となり,多くの若者が紀齋を頼って岡山から上京したのでした。縁戚者はもとより,辻 正子郎(しょうしろう)(当時13歳),水野浩四(ひろし)(当時16歳)などは奉公人の様な身分で紀齋に従ったのです。
明治23年,高山歯科医学院を芝伊皿子に開校時の講師は9名とも7名とも6名だったとも伝えられています。第1回卒業式の挨拶で高山院長は“本校創立の当時を顧みれば…生徒8名,講師9名という少数にして何事も不整備の嘆きありしが…”と語られました。ところが,通説と異なり当時に詳しい青山松次郎が書いた“高山紀齋先生略傳”によると,最初の講師は7名で,内4名が岡山出身の門下生―― 実弟の瓜生源太郎,佐藤源太郎,和田 忠(ちゅう),青山松次郎―― だったそうです。その後,同じく岡山の藤島太麻夫(たまお),瓜生春太郎(紀齋の甥)を講師として招聘し,その外,寺本数衛,水川犢三郎(とくさぶろう),辻 正子郎,水野浩四など黎明期の岡山県歯科界で活躍した多くの歯科医師が高山歯科医学院と何らかの係わりがあったのです。

―― 岡山・元藩士同志の嫁取り合戦 ――

 帰国した年の6月,銀座3丁目に治療所を開設した高山紀齋は“米国式治療で新しい薬と道具を使って手際よく治してくれる”とまたたく間に名声を獲得しました。時代も折よく堰を切ったような激しい文明開化の潮流に乗って,歯を病む上流社会の人々の間に紀齋の治療が喧伝され,又それ以前に外国人の歯科開業医が定めた高い治療代が継承され,そのおかげで高収入に恵まれたのです。やがて芝伊皿子に広壮な邸宅を構えて,銀座の治療所まで馬車で通うような大臣参議並みの生活が可能になり,その盛名は郷里岡山にも伝わりました。―― それを耳にした多くの岡山の若者が歯科医を目指して上京しました。

 それから3年後の事,高山紀齋は嫁をもらうのですが,この縁談をめぐっては当時の大きな話題となりました。後に衆議院議長となる鳩山和夫と嫁取りを競った結果,明治14年11月に紀齋は森山愛子と結婚したのです。岡山北部の作州勝山藩の重職だった鳩山家では,ライバルが日増しに隆盛を極めている31歳の歯科医との話を聞き“相手が歯抜きなら…”とたかをくくっていた様子です。こうして2人の岡山県出身の士族の縁談話は,洋行帰りの代言人(弁護士)に米国帰朝の歯科医師が勝利しましたが,後年,鳩山家は和夫の息子・一郎,曾孫の由紀夫と2人の総理大臣を輩出することになったのはご存知の通りです。

―― 歯科医に多い士族 ――

 高山紀齋と鳩山和夫に象徴される様に,明治維新後に祿を離れた武士たちが見出した活路は,教員・僧侶・医師・官吏などになることでした。岡山の作州勝山藩では明治4年8月,十代目鼓山城主・三浦顕次公が藩籍奉還し,奉還金を下賜して藩士347名と決別しました。家老の九津見吉衛門と渡辺政も鳩山氏と同様に浪々の身になったのですが,2家老の長男たち―― 九津見 肇と渡辺晋三は,禄高十五万石の比較的恵まれた地位に生まれながら,当時としては意外な職業の歯科医師を志しました。その頃は「歯抜き医」と言われ,祭礼や市立ちに大衆の中で抜歯を業とする輩と同等に思われており,それは相当の決断だったと思われます。その外に木田簾平・神原 定・木田 保などの藩士が,更に田添豊造・田添猪八郎・南城鋼一郎・八木亮三郎・山口浪三郎・関当辰などが歯科を学ぶために勝山を後にして上京したのでした。九津見肇は大正6年に,渡辺晋三の長男・済は大正8年に東京歯科医学専門学校を卒業し,同期の赤堀康興(勝間田)と生涯にわたる親交がありました。
一方,備前岡山藩からも高山紀齋の関係で,実弟の瓜生源太郎と長男・春太郎,縁戚の和田 忠・青山千代次・青山松次郎を始め,家老職伊木家より伊木熊男,その外佐藤源太郎・寺本数衛・藤島太麻夫・水野浩四・石津純一・木村蔦野・伏野忠繁…等々多くの士族が歯科医師になっています。

―― 2人の住み込み書生 ――

 高山紀齋の盛名を聞いて,郷里の岡山から上京して書生として住み込む若者が続出しました。辻 正子郎(しょうしろう)は13歳(明治30年)で上京,水野浩四は16歳(明治34年)で高山家に住み込みとなり,丁度経営の危機で高山歯科医学院が東京歯科医学院へと移行する時期を,内部からつぶさに見た“語り部”的な存在でした。辻 正子郎が後年 ―― 私は血脇先生の命令でよく質屋に行かされて弱った。その事を後に血脇校長に打明けたら“悪い事を覚えている”と言って苦笑せられた ―― と語ったのも一例です。

 辻 正子郎は尋常小学校を卒業すると,すぐ岡山市の和田忠歯科医院の書生になり,次に上京して瓜生源太郎に師事し,やがて高山家の住み込み門下生となりました。体格が小さく体重も8貫(30kg)位でしたので瓜生源太郎の鞄持ちをしてついて行くと,まるでカバンが行く様であったとのことです。生来の読書家で頭が良く,徴兵検査前に早々に歯科検定試験に合格したものの若過ぎて,開業免状が下附されるまで1年待たされたこともありました。辻 正子郎が高山先生の門を去った時の事もユニークで,高山紀齋は日曜日には銀座の歯科治療所の書生を本宅に召集して草取りをさせ,夕飯をご家族と共に振舞って食べていたのですが,辻は「高山の書生をしているのは草取りに来ているのではない!」とサッサと出て行ったそうです。

 一方,2歳年下の水野浩四(ひろし)は旧藩時代,高山家と水野家は隣同士の士族だった縁故で,高等小学校卒業後明治34年4月に16歳で上京し,高山家に書生として住み込みました。高山紀齋の門下生になると同時に東京神田中学校にも入学,明治38年には東京歯科医学院に入学して明治44年歯科検定試験に合格した努力家でした。書生時代,伏見宮家や毛利公爵家に往診に行く時,人力車で行く高山紀齋の後を水野浩四は治療器具の入った箱を持って併走,治療中は足踏エンジンを踏むのが仕事でした。菊の御紋入りの菓子が出たり,盆暮れに5円の祝儀が出るのも懐具合の淋しい書生には有難く,高山紀齋の相当厳しい修業にも懸命に耐えたそうです。

―― 最後の高山紀齋門下生 ――

 明治40年は日本の近代歯科の歴史上,最も輝かしい最も記念すべき年と言えます。それは永年の宿願であった歯科医師法が血脇守之助らの粘り強い尽力により医師法と同時に発布され,歯科医師の身分・業務・教育・団体の法的な根拠がここにはっきりと確立されたからです。この結果この年に我国歯科界に大輪の花が2つ咲きました。その一つは全国各地の歯科医師会の設立で,さっそく2月に神戸に,ついで4月に岡山と次々と設立された事。もう一つは同年9月12日に出た東京歯科医学専門学校の設置認可です。それからは我が母校の生徒は卒業後は無試験で開業が認可される(明治44年以後)ことになり,これで歯科医師の社会的地位の向上は大きく前進したのです。

 全国で2番目に誕生した岡山県歯科医師会 ―― 初代会長は高山歯科医学院の講師だったあの和田 忠(ちゅう)でした。2代目はやはり門下生の寺本数衛。次は紀齋の薫陶を受けた野々山勝平,甥の瓜生春太郎,伊木熊男と高山一門が県歯をリレーして繋ぎました。やがて昭和11年にはかつて診療用具を抱えて人力車を懸命に追ったあの水野浩四が会長に就任しました。水野浩四は名前の通り6人兄弟中4男で幼児期より隣家の高山紀齋の東京での名声に心を奪われ歯科医を目指したとのことです。まだあどけなさの残る13歳と16歳の時岡山から上京し,高山家の書生として歯科医師となった辻 正子郎と水野浩四は,永年苦楽を共にしただけにお互い“竹馬の友”と呼び合い生涯親交があり,語り合ったら半日位は家に帰って来なかったそうです。最後の高山門下生の2人 ―― 辻 正子郎は昭和51年9月に92歳で,水野浩四は昭和54年1月に93歳で共に他界しました。恩師・高山紀齋が逝去されて実に40余年後まで感謝を捧げつつ修業時代を懐かしみ,お互いを讃え合いつつ長寿を全うしたのです。

東京歯科大学同窓会会報 アーカイブスはこちら >>