「温故知新 万清楼を訪ねて」
第1回 高山歯科医学院院友会(現東京歯科大学同窓会)
明治28年6月16日 於 芝高輪 料理茶屋「万清楼」(同窓会報第399号より)

「温故知新 万清楼を訪ねて」第1回 高山歯科医学院院友会(現東京歯科大学同窓会)明治28年6月16日 於 芝高輪 料理茶屋「万清楼」(同窓会報第399号より)/近藤  保(昭和48年卒)
近藤  保(昭和48年卒)

1.はじめに

 平成24年7月に同窓会本部専務髙橋義一君から電話があった。「明治28年6月に第1回院友会が『万清楼』で行われた。ここから同窓会がはじまった。芝高輪付近にあると思うが,詳細がわからないので調べてほしい」という依頼であった。そして,資料として「東京歯科大学同窓会七十年の歩み」を送って頂いた。私自身も興味をひかれ第1回院友会と会場の万清楼について調べることにした。

2.第1回院友会の様子

図1:明治23年1月(1890年)芝区伊皿子町に敷地1,000坪,元スペイン公使館として使用されていた。ここに本学の歴史がはじまる

 「東京歯科大学七十年の歩み」によると明治23年高山歯科医学院(図1)創立後,約5年を経た明治28年6月16日,第一回卒業式が挙行され,当時在学中の有志が主唱して芝高輪の万清楼(図2,3)で卒業の祝宴を兼ねて院友の集いが開催されたということだ。そしてこのとき参集した同窓が相談の結果「高山歯科医学院院友会」と命名した校友団体を作り,会則を定めて役員を選出したという。第一回院友会の模様が分かる資料として「歯科医学叢談第一号」が紹介されていたので,ここに転載させて頂く。

 第一回卒業証書授与式の終わりたる後,第一回院友会を高輪万清楼に開けり,楼(図5)は高輪の浦頭に接して品海の砲台を眼前に眺め,漫々たる水は幾多の白帆を泛べて淼々涯りなく庭前の樹木は招かざるに習々たる涼風を送りて坐らに炎熱の苦を忘れしむ,場に入りて先ず快哉を唱へしむるもの寔に故あるなり軈て配膳終るや当日世話役の総代として笠原恭三郎氏は卒然として起てり,氏は其特有の巨眼を場の四方に放ち微笑を含んで咳一咳説き出して曰く「同窓相親しむは我も人も均しく望む所なれば啻に日夕学校に面を合わせるのみならず折々は一堂に会して懇談余念なきこそ打解て興こそあらめと今回の卒業式も幸い我々三四人同窓懇親会の相談ありしに然らばイッソ博く院友を会して院友会となさんとの動議起こり,終に之に一決して夫々の手配に及びたりしに幸に諸君の旧盟を忘れざるあり遠路を事ともせられず斯く多人数の来集ありたるは吾儕の一同に謝する所なり全体宴会の事には不慣れなる吾々行届かざる点は幾重にも諸君の御海容を請はん唯願くは千杯万杯を重ねて万重の愉快を共にせらんことを云々。」(中略)

図2:明治28年6月16日高山歯科医学院卒業式後に第1回高山歯科医学院院友会を芝高輪にある「万清楼」で発足した

 終わりて間もなく場の西隅(図7)に屹立し満座の諸君と呼ぶものあり誰やらんと打見れば血脇守乃助氏なり氏は其長身を直立せしめ「本日は世話人諸氏の尽力と来会諸君の御賛成とにより同窓の多年冀望する院友会の第一回を見るに至りたるは諸君と共に吾儕の欣喜に堪へざる所なり願くは本日の会をして竜頭蛇尾に終らしめず第二回第三回より千万回に到らしめんこと我々の冀望に勝へざる所なり本日は都合上拠ろなく会合時を正午と致したる為め諸君の御不自由も多かりしならん又時間の都合上出席を断はられたる方々も多分にあれば次回よりは必ず夕影と致さん」と述べて終て座に復す特有の切り口上ならんでスラスラと遺て除けられたるは蓋し微醺を帯びるためか終わりに高山紀斎氏は悠然起ち上り開口一番説て曰く「学院諸君多年の冀望と聞えたる院友会も諸君の尽力と賛成とにより首尾よく創立の運に到りたるは小生の祝杯を挙げて諸君と共に慶賀の意を表する所なり院友会の必要云々は茲に喋々を要せず米国の歯科学校なぞも大概同様の会を設け卒業後研究を重ね友諠を温むるの機関となせり諸君も願くは当初の目的を失はず永く本会の存続を意とせらんことを莫不有始鮮能有終矣とか兎角世間の人情として祭礼的の喧ぎには狂奔する者あれども沈静して後図を纒むる者の少なきが常になれば充分注意して有終の美を完ふするこそ小生の切望する所なり」(中略)ちなみに当日の出席者数は五〇名であった。

 その後の院友会の運営状況だが,明治28年11月16日に第2回院友会,明治29年5月2日に第3回院友会が,いずれも万清楼で開催されている。第3回の出席者数は70余名で急速に発展していった様子が分かる。
 当時の東京地方の天候を気象庁に問い合わせてみた。第1回は蒸し暑く曇り,第2回は快晴,第3回は晴れだったいうことだ。

3.万清楼について

図3:高輪泉岳寺下の第1京浜角(現在高輪ホワイトマンション)である。高山歯科医学院(伊皿子)から万清楼まで徒歩10分である

 まず三田図書館の港郷土資料館に「万清楼」について問い合わせた。すると偶然にも万清楼の子孫の方が,度々その資料館を訪れていること,かつて万清楼があった場所が(図2)が,高輪泉岳寺下の第1京浜角(現在高輪ホワイトマンション)だということが分かった。そして七代石井清吾様,秀子様ご夫妻(図4)とグランドプリンスホテル新高輪でお会いすることが出来た。その際に石井家と家業「万清楼」のまとめをした文書・資料をお持ち頂いたので資料の一部を紹介させて頂く。屋号の由来は初代万屋清右衛門の「万」と「清」を取り「万清楼」になったそうだ。

図4:「万清楼」第七代石井清吾様,秀子様ご夫妻。1800年~1920年約120年間芝高輪で料理店を営んで来た商人の記録を現在執筆中

 幕末の文化年間のころより大正9年まで「1800年~1920年」約120年間芝高輪で料理業を開き栄えてきた。初代万屋清右衛門「安永9年~嘉永4年」1780年~1851年が料理業を始めたのが30歳の時即ち文化10年頃である。以降2代3代4代5代と続き6代「石井克己」が大正9年に廃業するまで120年間に及ぶ特に幕末から明治20年代にかけて2代・3代が当主を務めた時代がもっとも繁昌した時と考えられる。
 万清楼の立地は高輪大木戸から品川宿にかけての東海道の海岸通りにあり,江戸湾を見渡す眺望のよい場所である(図2)。また,高輪の地域は幕末の頃外国公使館が集中していた地域でありこの点も商売に影響したと思われる。更に泉岳寺など多くの寺院が集中した場所であった。

図5:嘉永5年(1853年)万清楼より海側景観図と当時の地図と合せ。沖には砲台がみえ右側には品川宿が見える。チョンマゲの人がみえる
  • 用地は車町30・31・32番地
  • 面積937坪(図7)
  • 家屋は木造瓦葺2階建
  • 1階81・50坪 2階75・36坪
  • 付属4棟48坪
図6:安政6年(1859年)料理茶屋として認められ料理茶屋番図付表には約184店が掲載されているが,芝高輪地区ではランク入りは少ない。当時のお客山岡鉄舟より揮毫額を寄贈された

 江戸時代の後半になると様々な飲食店の中で料理屋として体裁を整えたものが所謂料理茶屋として認められる様になり安政6年「1859年」の料理茶屋番図付表には約184店が掲載されている(図6)。高輪万清楼も上段から2番目にランクされている。番図付表は安政・文久・明治とあるが当時の主人は2代万屋清右ヱ門3代石井清八であり,芝高輪地区ではランク入りは数少ない。
 
 当時のお客山岡鉄舟揮毫「万清楼」を来店時に寄贈されたものである(図6)。

図8:明治28年料理店営業許可証,警視総監園田安腎。自転車の挿絵日本に輸入された2台のうちの1台である。右が「御料理万清」,左が「外国局は高輪接遇所」である

 又,自転車の挿絵は英人ワーグマンが「ジャパン・パンチ」に掲載したもの。明治2年1月号(1869年)―日本に輸入された自転車2台のうちの1台である。絵にあるは「御料理万清」と「外国局は高輪接遇所」である(図8)。明治になると料理業を営む上で色々の許認可が必要になり,その一部を記載すると

  • 明治11年1月29日 酒請け売り鑑札 東京知事 橋本正隆
  • 明治12年8月4日 料理店営業鑑札 東京府芝区長 相原安二郎
  • 明治28年4月18日 料理店営業許可者 警視総監 園田安腎(図8)

 当時の献立は簡素な日本料理が中心であった。即ち,吸い物,前菜,刺身,朱に鰹,鮃など焼魚,煮角,茶碗蒸し,香の物,ご飯という具合で寿司,うなぎ蒲焼,土産物の和菓子等は外部からの仕入れである。酒は豊富で日本酒,ビール,葡萄酒,洋酒全般で現在と変わらない。

4.第1回院友会再現

 前述した「歯科医学叢談第一号」と石井氏が提供して下さった「万清楼」の資料をもとに改めて第1回院友会の当日の様子を再現したい。

 明治28年6月16日のことである。高山歯科医学院第一回卒業式に際して祝宴会を開くことになり,これについて,初めは八百枝康三,加藤福松,笠原恭三郎,住井雄熹その他の諸氏が相談してこの会を主として生徒の懇親会を兼ねたものにしようとしたが,その後,これがさらに一転して以前からの念願である院友並びに同窓の友誼を温める会合にしようということに衆議一決した。卒業証書授与式終了後,笠原恭三郎氏を世話役総代として芝高輪の「万清楼」に会合を開き,「高山歯科医学院院友会」と命名した校友の一団体を作った。午前中,卒業証書授与式終了後に,徒歩で伊皿子坂を下り10分程で高輪泉岳寺下東海道の角「料理茶屋万清楼」に参集した。東海道の往来は大変にぎやかで,東海道の向かい側(図5)は品川沖に砲台がいくつも見え,又,右側には品川宿が見られる。

図7:右上の航空地図は昭和42年当時である。上に泉岳寺境内がある。万清楼は廃業され住居として利用。手前が第一京浜である。万清楼の1.2階の平面図,玄関は南側にある

 万清楼の玄関は南向きだ。2階に上がり(図7)大広間で会合が行われた。当日の出席者は50名であった。天候は曇りである(気象庁より)。庭前の樹木から涼風が送られ蒸し暑さも忘れさせられる。
 当日の料理は鯛の尾頭付きから口取り,吸い物,揚げ物,刺身,焼き魚,うま煮,茶碗蒸し,香の物,酢の物などであったものと思われる。日本酒,ビール,葡萄酒,洋酒,そして,当日出席された歯科器具店主若林唯造氏より麦酒1ダースの寄贈があった。配膳が終ると世話役の笠原恭三郎氏の挨拶後,血脇守之助氏が西隅より立ち上がり「同窓が冀望する院友会が本日の会をして竜頭蛇尾にならずに第二回,第三回より千万回になることを望む」続いて高山紀斉氏が立ち上がり開口一番「院友会の必要は卒業後研究を重ねる機関となるなり目的を失はず永く本会の存続なることを望む。卒業後も学術実地共に研究を重ねることを小生は深く希望します。」と述べ一同杯を掲げた。

5.おわりに

 我が東京歯科大学同窓会は今年創立120周年を迎える。今回,その原点となる第1回院友会を当時の会場まで辿って調べてみるうちに遥か昔の先達の若さや気概といったものが直に伝わってくるような気がした。学術,実地,共に研究を重ねるようとする我々の精神は実は明治28年から脈々とこの会に息づいてきたものである。今後まさに千万回に至るまで伝統を引き継いでいかねばならないと改めて思う。又,皆さんにお勧めしたい。伊皿子坂(高山歯科医学院跡地)より泉岳寺坂下(万清楼跡地)まで徒歩10分,温故知新の散策をしてみてはいかがだろうか(図2)。
 最後に今回貴重な資料をご提供くださった石井清吾様,秀子様ご夫妻に改めて感謝申し上げ,小文を結びたいと思う。

参考文献:

  • 東京歯科大学同窓会 「七〇年の歩み」
  • 石井家と家業「万清楼」のまとめ 平成25年7月
  • 石井家文書-資料について 平成26年9月