四期会(昭和31年卒)/Bクラス墓碑抄

 我々は,昭和25年東歯大4期生として予科に入学し,40名のクラス編成になるBクラスで,まさに人生のスタートを切りました。
 当時の社会は未だ戦後で,クラスには陸軍将校を退役した人もおりました。街なかにはGHQの兵士が闊歩し,コメは配給制,外食には政府が発行する外食券が必要でした。又,戦火を逃れた市川でも下宿させてくれる家は少なく,8〜10畳の部屋に合宿の様に相部屋で生活をした者もおりました。
 教育制度も大変革し,歯科大学予科が設けられましたが,3年の就学年数が我々から2年になり,予科での授業は一般教養科目だけでした。上級の3期生は新生大学生という意識が強いせいか,或は戦争による勉強時間のロスを取り戻そうとしてか,勉学への熱意は高くのびのびと然も自主的に,これぞ大学と云う雰囲気がありました。その情熱は昭和40年頃のスタディクラブの隆盛をもたらす原動力となり,近代日本歯科医療の礎となったと考えております。
 卒後,級友で旅行会を作り,2年毎に全国に居を構えた会員が幹事となり,各人故郷自慢の機と捉え,積極的に引き受けた為,最高の「もてなし」を受けることが出来ました。然し,加齢と共に観光よりも旧懐の場を持てればと,集まり易い東京で毎年開くことに変更し,平成27年5月には東京の國府田,北村両君のお骨折りで大相撲,寄席を観賞しました。「又来年も会いましょう」と握手を交わして別れたのに年が明けて間もなく幹事体調不良でクラス会延期の報,その後は互いに会う機会も無く,参加した6人の内5人が次々と黄泉に旅立たれました。
 名古屋の大野敞弘君(H28.3.12逝去)は徳川家康に似た風貌もあって大祭には家康役をやらされていたそうです。社会問題や歴史に詳しく,機知に富んだ話題の持ち主でした。落語家古今亭文菊師匠を囲んだ最後の会での懇親会でも,途中衣装替えされたことに「こんな少ない客でも衣装を変えてくれるのか」と労い,着物の江戸紫の講釈までされ師匠も気分よさそうに打ち解けていました。又,大変な愛妻家で,奥さんが重い病気で秋田県の山奥で湯治をされた時には,毎週土曜の仕事が終わった後,車で名古屋から国道7号線を走ったとも聞いております。
 國府田清史君(H30.3.22逝去)は口数は少ないが,よく人の面倒をみてくれました。写真を趣味とし率先して会の運営,記録係として集合写真からスナップ迄恐らく彼のアルバムは大変な数になると思います。又,登山愛好家で日本の山には飽き足らず奥様同伴でネパールに6回,パタゴニアには2週間余の長逗留で山の魅力を満喫した人でもありました。
 北村晴彦君(H30.10.21逝去)は地元北多摩歯科医師会の会長として尽力,公衆衛生指導では市民からも厚い信頼を得ていたそうです。カラオケが好きで新曲も直ぐ覚えプロ並みと定評があり,いつも二次会は盛り上がりました。
 伊藤修一君(R2.11.23逝去)は学生時代からよく剽軽な事を言っては笑いを誘い,本格的な文筆家でもありました。地元新庄地区の歯科医師会会長を務めながら,或る期間,山形県歯科医師会の月刊会報のコラムを,又山形新聞の日曜随想を受け持ち活躍,短編小説「木漏れ日」(収録15編214ページ)を出版,文芸評論家の池上冬樹氏に「短編の名手」と称されております。
 松本 功君(R3.5.5逝去)は風流人としても名高い不昧公が藩主の松江の人ですから,自らも風流人を自覚していたかも知れません。松江城,出雲大社を中心とした観光を四期会,Bクラス会と2度も主催し,島根の魅力をいかんなく教えてくれました。公人としても,若い時に一度島根県歯会専務理事を務め,会館建設の際に再度専務理事に抜擢,尽力されたそうです。学生時代から真面目で統率力があり,信頼されておりましたから生涯リーダーだったのです。長い間大変ご苦労様でした。
 四期会Bクラスは戦後と云う特異な時代を共にした個性豊かな歯科医師の長男の多い集まりでした。半数以上の友を失いましたが,各人への思い出懐かしさが沸々と沸いて参ります。 合掌

(小林英弥 記)