草創期の歯科界をリードした石塚三郎の日誌に見る「天長節事件」について(同窓会報424号より)

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5 天長節事件の結末

 石塚の日誌によれば健案(ママ)(懸案)の非歯科医保護者の件は終息した。しかし、所謂「天長節事件」の結末はなお不透明である。
 会長の石塚は、「12月1日新潟へ赴き、県衛生課川上警部に面会し、種々会務上の照会(折衝)をなせり。」と記載しているだけで詳細は不明であるが、早期終息を中心に話し合ったものと思われる。
 ところが、12月13日」になり白井、永井両名から次の様な脱会届が提出された。

 『脱会届:明治42年11月3日県歯科医師会臨時総会に於ける謝罪議決は法規を無視し全く権限を逸出せる横暴不当の議決を肯て(あえて)(肯定、そうであると認める)せしを以て班(小集団、少数派)を会員に列する能はず。依て今般脱会致居間此処届出居也。明治42年12月12日
右   白井徳蔵 (印)
    永井権吉 (印)    新潟県歯科医師会会長石塚三郎殿』

 石塚会長は、「12月15日」この脱会届を送り付けた2人に対し葉書で次の様に返答している。

「拝啓、ご提出の脱会届は、違法の者故処理難致候へ共、為念一応取調の上可得貴意居也」 会長 石塚三郎 (印)

 さらに「12月16日」午前10時頃、白井徳蔵から「自分俄県歯科医師会脱会届に付別紙薬価治療料規定表及返付居条領収書御交付相成度候也」との書面と薬価治療料規定表が返送されてきた。これに対し石塚会長は即時つぎの返答をしている。

 「拝啓 歯科医師会は脱会すべき性質の者(ママ)にあらざれば随って薬価治療料規定表の御返還は受理するの限りにあらず此通り及回答居也
白井徳蔵様  会長 石塚三郎」

 同日、午後1時半頃、同人より復(ママ)左の来状あり。

 『啓上 余は性質の如何は問議すべき要なし、苟も権利の傷害を受けんとする場合に当りては法規の禁ぜざる限りは自己の権利を保護せざるべからず。然り而会長が脱会を拒絶するは如何なる法規に依りて斯る断言をなし得るか承知致度居也。 明治42年12月16日 白井徳蔵  県歯科医師会会長 石塚三郎殿』

 右に対し手術中なりしを以て、いずれ回答すその旨使者に申含めたり。
 然るに午後3時40分頃、又々左の書状を持参せられたり。

 『再敬具 貴下は歯科医師会を脱会すべき性質の者にあらず云々との曖昧の文言の許に拒絶せんとするも一旦成分法となり現はしたる以上は、その成分を合理的に解釈すべきものにして、性質如何は立法論としてはいざ知らず、法の適用に当りて云謂すべきものにあらざる可し、貴下にして成法解釈の能力なしとせば致し方なきも、若しも知らずして余が退会を拒まんとせば致し方なきも、若しも知らずして余が退会を拒まんとするは不当なりと考えずや、敢えて明答を催すものなり。42年12月16日 白井徳蔵  会長石塚三郎殿』

 石塚会長も負けじとばかりに「12月17日」午前、白井徳蔵宛に次の回答書簡を送りつけた。

 『拝啓,ご照会に相成候脱会不可能の理由に付、左に御答ひ(ママ)申上候。県歯科医師会は歯科医師法の規定に基き、県知事の認可を経て設立したる者(ママ)なれば苟も県下に在り手(ママ)歯科医師業に従事せらるる限りは脱会し得ざる者(ママ)なる事は歯科医師会規則第8条に明らかなり。御一読あらば自ら判然可致候、右及回答居也。 12月17日  白井徳蔵殿  会長 石塚三郎』

 12月18日朝、郵便にて白井、永井両氏より左記の書状到着せり。

 『啓上、脱会不可能御申越の理由は、第一、県歯科医師会は歯科医師法の規定に基き知事の認可を経て成立したるものなること。第二、県下に於て歯科医業を行はんとせば歯科医師会規則第8条に依るべき事の二点なりとする。
 右第一、歯科医師法とあるは、歯科医師会規則【内務省令第34号(註:医師会規則第5条を歯科医師会に適用する件)】の見当違ひ(ママ)なるべし。
 但し県歯科医師会の成立順序の如きは、脱会者たる吾輩に於て論ずるの要なし。第二の歯科医師会規則第8条を以て脱会不可能なること明らかなりとは、吾輩の想像し得ざる所なり、蓋し第8条は、会を組織すべき会員の区域を規定したる迄にて脱会の不可能は注文の解釈にあらず。仮に譲歩して貴説の如しとするも吾輩は尚ほ脱会を主張するものなり、吾輩の主張を抑制するの権利あらざるべし。
 故に断言す、現今の法令は吾人の入退会を強制すべき規定なし、既に然りとせば吾輩の主張は事実に於て遂行せられたるものにあらずしてなんぞや、果たして然らずんば、所謂不可能にあらずして可能なりと知らずや。惟ふ(おもう)にこの言論は最終の判決にして貴下に於て反駁(はんばく)するの余地を有せざる可し、若しこれありとせばその珍説を迎えむ。 42年12月17日  白井徳蔵  永井権吉   石塚三郎殿』

 12月20日の日誌を見ると、石塚は、白井、永井両氏に宛てた書状に脱会届を添えて返却している。その書状には、両名の非常識な理論と歯科医師としてのモラルの欠落を嘆き悲しみ、唯々唖然として大息する外はない。
 然し、尤も常識的な解決を望むならば、書状によるキャッチボールは止めて後日、緩々と会談しましょう。という赤裸々な心情が記述されている。
 然しこの書状は「12月20日午後8時」と記入されている事から、石塚の依頼した脚夫(書状運送人、郵便配達人、飛脚など)によって逓送されたものと思われる。

県歯科医師会は不法に付脱会す
明治(42年12月21日北越新報特別広告)

 「12月21日」北越新報朝刊に不穏当な特別広告を発見せり、と記述しているが、翌22日にも北越新報と越佐新報にも同様の広告が掲載されていた。
 その内容は以下の通りである。

「石塚三郎会長の県歯科医師会は不法に付き脱会す。
 長岡市表四  歯科医師  白井徳蔵
 仝  新道  歯科医師  永井権吉」

 これも新聞の切り抜きを日誌に貼付してある。
 渡辺浪江氏にかかる非歯科医保護の件が、ようやく終結した処、今度は白井徳蔵,永井権吉の両人が石塚会長に脱会届を突き付け、しかも新聞2社に特別広告を掲載、不穏当な行動を再開した事に対し、石塚会長は長岡市内の役員を招集し前後策を協議した。
 一方12月22日の日誌に「前長岡市医師会長・川上政八氏、仲裁を申込まる」と記述してあり、歯科界の見苦しさを見かねて仲裁の労を買って出られたものと思われる。
 「12月23日」石塚は、山田、塚田、高野の3氏と種々協議している所へ永井権吉氏が内談ありと来訪、別室で話を聞く、要は、「内輪の問題を公表して新聞紙上に争うは、余り立派な事ではないので明春の総会迄延期してはどうか。」との事である。
 これに対して石塚会長は、「余は飽くまで平和的解決を希望するが、歯科医師会全体に関する事であり、余個人で決める訳にはいかない。貴下と白井氏は既に最後の手段を断行されたので、歯科医師会として相当の処置を執らねばならないだろう。猶、石塚三郎会長云々の広告は、白井氏と合意の上で掲載させのか。」と尋ねた処、永井氏は、「文面は白井に一任していたので新聞を見て初めて承知した次第である。」と云う。
 そこへ仲裁を買って出た川上政八氏来訪、「只今白井徳蔵氏を訪問し、意見を聞いて来たので、今度はこちらの意見を聞きたい。」永井氏もここに列席しているので種々協議の未、川上氏から「新聞広告を取り消して平和に解決すべし」との議を提出され、永井氏も之に賛成し、極力白井氏を説得して明晩更に会合することにして散会した。そして翌「12月24日」午後6時、山田、塚田、高野の3氏来会、午後7時になっても永井氏は現れず、暫くして電話あり、「川上氏の外、仲裁者として池野君(医師)を加へたいとのことであった。
 余之に答えて曰く「川上氏は小生の依頼に依って仲介の労を執らるる者にあらず」とその川上氏の善意を懇々と説明し、是非とも池野氏を加へたいのなら川上氏の承諾をもらってからにしてくれるように話した。
 その後永井氏から、「川上氏も承諾され、池野長太郎氏を仲裁人にお願いし承諾された。」と電話あり何れにしても、彼是(かれこれ)する間に時間経過し、山田、塚田、高野の3氏は空しく帰宅したのは夜中の12時であった。
 「12月25日」川上氏と池野氏は仲裁者としての意見を交換する為に会見した。池野氏は「脱会は可能」と解釈したが、川上氏は「脱会は不可能」と意見された由。兎に角、新聞問題を取り消して平和に終結することが出来そうだとして取消文の原案を作成することにした。

「事理了解候に付歯科医師会に関する不法云々及び脱会の文字を取り消す。
 進んで会の権威を表記する為め石塚三郎君の名義を表記致し候へ共同君とは公交私交上聊か停意(気が進まない、親友を思う心)あるにあらず。(ないわけではない)明治42年12月20日 白井徳蔵 永井権吉」

 然し「12月26日」池野氏より電話にて、昨日川上氏と会見の結果、本日白井、永井の両氏を招き懇談した処、到底取り消すべき意志なく、余の仲裁は是にて御免を蒙りたい、との事、又同日川上氏からも電話にて、臨時総会に於ける謝罪云々の決議を取消さなければ一歩も譲る事は出来ないと頑張っているで此の平和問題は到底望みなし、遺憾乍ら仲裁の手を引かんとの御申越しあり、といかにも残念そうに記述している。
 同日、高田町・江川鈴弥、倉地実雄、山本允義の3氏より
(1)白井、永井氏脱会の顛末を知事に具申し相当の制裁を仰ぐ可きこと。
(2)両氏の本会に対する不法広告を取消さしむること。
(3)両氏の処分方法に付臨時総会開催の可否。
 この三ヶ条の議題についての提案があり、近日中に役員会を開催し決議するよう促されている。「12月27日」今朝北越新報に下記記事ありとして、新聞広告切抜が貼付けされている。

 「新潟県歯科医師会役員会:同医師会員なる当市白井徳蔵、永井権吉の両氏は曩に県知事に向て脱会を届出てしも正当の理由なしとて却下されたるに対し医師会(ママ)不法に付脱会云々の新聞広告をなしたるが右は黙過すべからざる事なりとて高田在住の同会役員なる3氏より同会則第7条に基き左の三ヶ条の議題を提出したるを以て同会にては近日中役員会を開き議決すべし。」
(1)白井徳蔵、永井権吉両氏の脱会は会則を無視し法規に違反したる不法行為と認むるを以て其顛末を県知事に具申し相当の制裁を請う可きこと。
(2)白井、永井両氏に対し本会の威厳を保たん為め県歯科医師会に関する不法云々の広告を取消さしむる事。
取消文は北越・越佐両新聞へ7日間特別広告をなさしむること。
(3)白井、永井、両氏の処分方法に付臨時総会開催の可否。

 この記事を見た石塚会長は日誌に「就中、永井、白井両氏は県知事に向て脱会を届出でしも却下去(ママ)(さ)れたりとあるは、全く同社の誤聞なるべし、両氏は県知事に向て脱会し得るものなるや否やを照会したるは明らかなり」と日誌に記述している。
 それに対して「12月28日」北越新報社新聞に次のような申込文が掲載  されていたので、これを切抜いて日誌に貼付していたのである。

明治42年12月27日北越新報記事「新潟県歯科医師会役員会」

『拝啓貴社第8945号に新潟県歯科医師会役員会の表題下に生等県知事に向て脱会届をせしものの如く御記載せらるるも脱会届を県知事に提出する程常識なき行動をせしことなし右事実異相の点御訂正被下度候也  歯科医師白井徳蔵(印)、歯科医師永井権吉』

 尚この申込文に白井徳蔵(印)とあるが、永井権吉には(印)が欠落している。矢張り白井主導なのかもしれない。

12月27日付掲載文の一部に誤記あり、その訂正を求めた28日の北越新報

 日誌「12月29日」高田町・江川氏より電話にて、白井、永井両氏脱会の件に付協議ありたり。と記載がある尚この申込文には白井徳蔵(印)とあるが、永井権吉には㊞が欠落している。やはり白井氏主導なのかもしれないが、以下七行に亘って原文が空白となっている。此の空白部分は後日何かを書述する為に空白としておいたのかもしれない。
 石塚会長以下、長岡、高田の役員一同は、所謂「非歯科医保護事件」「天長節事件」に翻弄され「非歯科医保護事件」は解決したものの「天長節事件」の為、、日常の診療も思うに任せず、医師会から買って出た仲裁人も手を引き、此の問題は未解決のまま愈々年を越すこととなった。

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