血脇守之助先生は数多くの書を残されました。古い卒業アルバムには毎年のように掲載され,縁のある方々には事あるごとに筆を取り,生徒,友人,子弟へ,また時代背景を添えてみると時には血脇先生本人の心境を反映するものとして読み取ることができそうです。
昭和54年発行の「血脇守之助傳」によると,我孫子の尋常小学校では成績優秀で高学年になると夜間は校長先生の自宅に通って漢字を習い様々な本を写筆,その見事な筆使いは「祖父は多くを学ばずして天性達筆であり,父も見事な筆蹟を残し,特に母も能筆家で,守之助の達筆は天性備わったものであったかもしれない」ということです。数々の書の中からその一部をご紹介いたします。
昭和6年初春(血脇守之助傳より)
「世の中は五分の真味に二分侠気
あとの三分は茶目でくらせよ」
血脇先生の有名な「書」の一つです。
この歌は明治32年(1899年)10月,ペストが発生した清国(中国)牛荘(ニュウチャン)に赴くこととなった野口英世が出発の際,血脇先生のところに挨拶にきた英世の憐れな夏服姿を見て,部屋に敷いてあった赤毛布を与え「人生は,五分は真面目に取り組み,二分は男気を持って,あとの三分は無邪気に過ごしなさい」と歌を作り励ましたという。
後年,この歌を「書」に書いて幾つか残されているようで,もしかしたら「あの時野口英世に作った歌だよ。君も頑張りたまえ」などと言っては「書」にして渡したのではないかと想像されます。
大正3年(卒業アルバムより)
「自彊不息 じきょうふそく」
儒教の経典 易経から引用
「天行健なり,
君子以て自彊して息(や)まず」
天の運行は健やかで,一刻もやすむことがない。君子もそれにのっとって,自ら努力することを休んでは(息は休息の息)いけない。
大正3年には日本医学会歯科分科会長や日本医学会幹事に就任される。
大正4年10月 野口英世凱旋帰国 10月17日に英世は東京歯科医学専門学校卒業式で祝辞を述べる
大正5年(卒業アルバムより)
「懐しき友の俤
なつかしきとものおもかげ」
俤:記憶によって心に思い浮かべる顔や姿
「医師二元論」で激しい議論を戦わせた盟友の川上元治郎が大正4年7月に逝去しているので,川上元治郎を懐かしんで書かれた書であろうか。
大正8年10月(卒業アルバムより)
「真如 しんにょ」
仏教用語で変わることのない万物の真性
4月に日本連合歯科医師会会長に就任,10月には守之助個人の私有であった東京歯科医学専門学校の土地,資産を提供し財団法人を設立する大英断をする。
大正9年10月(卒業アルバムより)
「赤心 せきしん」
嘘偽りのないありのままの心
私立東京歯科医学専門学校の土地,資産を提供し財団法人を設立,その理事長になる
創立30周年(高山歯科医学院開校より)祝賀会開催される。
大正12年9月1日関東大震災
昭和3年(卒業アルバムより)
「暁光泛海 ぎょうこうはんかい」
暁光:明け方東の空にさす光
泛海:海の上に被さるように浮く,広く海の全面をおおうさま
前年11月には校歌・校旗発表会があり,昭和3年1月には新校舎地鎮祭が行われた。
昭和6年春(卒業アルバムより)
「難に堪ゆる者は終に玉成す
なんにたゆるものはついにたまなす」
「艱難汝を玉なすかんなんなんじをたまなす」という諺をもとに血脇先生が自分で変えて書いたと思われる書。(達筆のため読み間違えているかもしれません)
「困難や苦労を堪えた者は,最後には立派な人間になる」という意味。