広報部委員 西村 哲雄
血脇守之助の少年時代は穏やかで丁寧そして真面目であり優秀であった。学院長になってからもニコニコとした笑顔でうんうんと人の話を聞き,誰からも好かれた。生活はとても質素なのだが,とにかく酒好きで旅中では朝,昼,晩だけでなく寝酒も嗜み終生,盃を離さなかった(熱燗が好きで口唇を突出し独特の飲み方をしていた)。酒を飲んで醜態をさらすことは決してなかったのだが宴会で偉い人がいようとかまわずやる余興があったが天性の魅力のある血脇を不快に思う者はいなかった。そして生来読書が趣味であったので,経済学,四書五経,易学にも通じていた。血脇という人物は大胆な感じだが実に繊細で人情味のある人柄であったようだ。晩年に「私は天の刻(タイミング)地の利(自分の能力)人の和(人を引き付ける器)を得て何とかやってきた」と言っている,天地人に翻弄されながら,がむしゃらに生きてきた人ならではの言葉なのだろうか。血脇先生の天地人を探り薄れゆく軌跡をたどり,血脇イズムの真髄に思いを巡らしてみたい。
人の和
血脇が生まれたのは,明治3年2月1日で,昭和22年2月24日77歳で亡くなっている。この明治という時代は武家社会から近代日本に向け世界でも類を見ないほどの飛躍をした時であった。新しい時代に武士達も西洋文化を取り入れるべく大海を渡り新しい技術を日本に持ち帰った,高山紀齋もその一人であった。だが民衆にも学問をすれば貧しい生活から抜け出し志を持った人生を送ることができるという思想が徐々に広まり始めていて,さらに才能を持ったものを世に送り出してやろうという気運もあった。この時代背景が血脇の才能を高く評価し学問の道へと血脇を進めたのだ。血脇は明治14年慶應義塾幼稚舎に入学,その後やめ,東京英学校入学,疥癬にて帰郷,明治16年明治英学校入学,明治17年進文学舎に転入,同年,共立学校転入,明治19年大学予備門第一高等学校の受験失敗,大成学舎に入学,大腸カタルにて帰郷,明治19年慶應義塾入学,明治22年慶應義塾を卒業,その後,新聞記者となるもケガにより4ヵ月で退社,次に我孫子に新聞販売店を熊さん(島根熊吉氏,後に本校小使取締,最初の学葬となった人物)を配達人として雇い開店,しかし同業者の抗議により和解金を受け取り3ヵ月で廃業,明治23年1月新潟の英語教師となった。ここまでの血脇の人生は紆余曲折し,苦労をしていた。
教師をやっていた時「一般家庭の子弟も教育を受けられるようにしたい」と進言したことがあった。慶應にいた血脇もその教えを継承し,広く才能のあるものを見出し学問を広めた。しかし,血脇の求めるものは教職には見いだせないでいた。そんな時ドクトル田原利に出会う,ドクトルとは馬が合った。田原は「酒は飲めません」という血脇を毎晩酒宴に連れ出し,血脇も身だしなみにも気を配るようになった。田原は血脇に大いに影響を与えた。そんなある日,洋式歯科医の記事を見て「これなら独立して金を得ることができる」と思いつき田原に相談すると「歯科医の地位はまだまだ低いが日本歯科医界を導くのは君のような高潔な人物でなくてはならぬ」と血脇の背中を押した。明治26年2月,血脇守之助24歳で上京し歯科医界の大海原に漕ぎ出したのであった。
血脇と高山もまた運命の糸で結ばれていた。上京すると学友中条誠一郎と偶然出会い彼の友人,森山松之助を紹介された。彼は高山夫人の実弟(彼は将来水道橋校舎の設計をすることになる)であった。当然の如く血脇は高山歯科医学院に入学した。するとその英語力と才能を買われ学生の身で幹事となった。ここでも血脇は学生や講師に慕われた。特に年長の講師であった榎本積一,遠山椿吉は二人とも血脇を助け心を通わせた。榎本は日本歯科医師会の前進日本聨合歯科医会初代会長になった人物で,遠山椿吉は帝国医科大学国家医学科を卒業し明治24年に東京顕微鏡検査所を一脚のテーブルと一台の顕微鏡から現在の東京顕微鏡院を作り上げた人物であった。
明治29年,歯科医となった血脇に会いに田原利が東京を訪れ久しぶりの再会となったこの頃血脇の懐はまださびしかった。案じた田原に勧められ会津若松の旅館で巡回診療を行った。ここで血脇は,渡部鼎の書生野口清作少年と出会った。後に血脇は「男が男に惚れるというのは全財産を費やしてしまうことだ」と言って野口を支援し続けることになる。学業を怠る生徒に厳しくする一面もあった,血脇にひどく叱られ寮の退去を命じられた生徒がいた。だが彼は心を入れ替え真面目に勉強したが病に倒れる,血脇はすぐに見舞いに行ったが彼の病は手遅れであった,彼の絶句は「血脇先生に伝えてほしい…とても厚いご恩になった…」石塚三郎は血脇に「何の事でしょう」と尋ねたが語られることはなかった,しかし,血脇の温情は多くの学生が知るところであり,血脇の家族主義を肌で感じていた。血脇は学生と深く心を通わせ優秀な学生を輩出していった。
地の利
高山歯科医学院の経営は全くうまくいっていなかった,明治23年に高山紀齋が開校したがその経営は苦しく最初は生徒7人教師9人であった,高山は宅地と屋敷を買い入れたが,維持が難しく非常に苦しんで月々相当の借金をしなければならなかった。血脇は自ら高山に申し出て自分に学院の経営を任せるよう迫った,経営の立て直しに心血を注ぎたかった。だが,清国からの親善巡回診療から帰る頃「新天地台湾で歯科医療の普及をしたい」という考えが頭の中を巡っていた。血脇は高山に辞表を提出するが高山は「血脇君は自分から経営をすると言い出したのではないのか,君が辞めては困る」と引き留めたが血脇の意思は固かった。高山は「君が辞めるのならば廃校とする」と言い出し,さすがの血脇もこれには驚き辞表を撤回するが結局,高山歯科医学院を引き継ぐ事となる。しかし,高山より譲られたのは歯科医学院の権利,ランプ6個,机14脚だけであった。しかし,ここでも血脇は天性の能力を発揮し,さらに高山から受け継いだ人脈が彼を救った。校舎は遠山椿吉の顕微鏡院を夜間使用しない時に借用することができ,講師陣も確保できた。東京歯科医学院と改名し遂に血脇イズムを浸透させる時がきたのである。明治33年2月12日,来客200名生徒13名という東京歯科医学院の船出であった。血脇院長は歯科医の地位向上と若者の人材育成に情熱を傾けた。そのために必要な歯科界全体の学力向上,対外的な活動,政治活動も精力的に行った。こんなエピソードがある,代議士小川平吉(帝国大学卒弁護士,宮沢喜一の祖父)が血脇の演説に「何だ!血脇は歯科医のくせに」と冷評をあびせた時,すぐさま血脇は立ち上がり小川の頭を強かに殴りつけた。温厚な血脇がここまで怒ったのは歯科医の地位向上に真剣に尽力し高いプライドを持っていたが故であろう。
天の刻
東京歯科医学院の経営を安定するために血脇歯科医院の看板を揚げた。校舎は顕微鏡院の教室であったが入学希望者はみるみる増加し50有余名となり,明治33年4月21日には東京歯科医学院の第一回,通算6回目の卒業式を行うことができた。顕微鏡院の生徒も増えてきたため教室を明け渡す必要に迫られた。そこで三崎町の大成中学の教室を夜間使用できるようにしたが,血脇は日々校舎の問題で苦慮していた。そんな折,血脇診療所の隣の土地を買わないかという話が持ち上がり,金策に奔走し,なんとかその土地を手に入れることができ,明治34年1月,自前の校舎を手に入れることができた。この移転とともに3月の新入生は129名と飛躍的に増加した。
血脇は批判もされたが,優秀な人材にはお金を惜しまなかった,野口英世は渡米熱にかられ,結婚詐欺的に婚約者の親から渡米費を巻き上げその金を遊里で使い果たしてしまった。血脇は仕方なく高利で借金をして野口を横浜港から送り出した。また区画整理で得たお金で借金を完済し残りのお金を奥村鶴吉の留学費に当て少しばかりの残ったお金は電話を引くのに使ってしまった。血脇の経営は将来の栄光だけを目標に苦しい経営を続けていた。
明治38年改装工事に続き校舎,診療,自宅と新築され,明治39年4月8日,落成式を挙げた。この時初めて寄付金が集められたが,その後はまだ学院が血脇の私有財産であったので寄付は断った。
明治40年9月12日待ちに待った専門学校の設置が認可された。同年11月3日東京歯科医学専門学校が誕生した。臨時総会で校名変更に伴う同窓会名の変更および在学生を同窓会籍から除く件が承認された。それまでは在学生は入学と同時に同窓会に入会していたが,学生会が発足し学生が脱退した,現在90年ぶりに学生を準会員として迎えることは大変喜ばしい。
明治43年2月1日血脇の誕生日に文部省より明治44年以降に卒業した者は医術開業試験に合格せずとも合格を許される事となった。大正8年には拡張基金の募集を開始したが,その前に本校財産すべて(総額45万6千4百6円5銭,現在の価値で5億円以上)を寄贈し財団法人とする事とした。大正10年には学校改築の視察及び欧米との親交の外遊に出発した。血脇は日本の歯科医としての誇りを胸に旅立ち,米国では大統領にも表敬訪問し偉業を成し遂げていった。
天地人
大正11年に鉄筋コンクリート三階建て校舎も使用始めたが,矢先の大正12年9月1日関東大震災に見舞われた。血脇は神奈川県下曽我に新しく購入した別荘で家族と過ごしていたが上下の振動とともに家はぺしゃんこになり,血脇は家族もろとも家の下敷きになった。二男芳雄に助け出され家族全員なんとか無事であった。4日間余震があり竹やぶで過ごし荷車を借りて食料を積み徒歩で東京に向かった。自宅は無事であったが,学校は焼け金庫とコンクリート3階建の残骸だけが残った。また無からの船出となるのだった。しかし血脇は九死に一生を得た命で「やらねばならない」と自分を奮い立たせた。9月からは慶應義塾医学部の教室を借り授業を再開した。ここからの血脇はすごかった,天の刻,地の利,人の和を得,その能力を遺憾なく発揮した。震災から7年後の昭和4年11月2日,歯科の殿堂,新校舎の落成式を迎えた。血脇はこの奇跡の日に「死ぬ気でやればここまでできるのだという見本を見せたかったのです。歯科の殿堂ができればよいのであって,私はもう死んでも構わないと思ったくらいでした」と語っている,この費用の大部分が校友の寄付であった。これは,我が校の家族主義,血脇の人望と生徒や職員に対する愛情のなせる業であり,歯科医学の発展,地位向上へのたゆまぬ努力があったからなのだ。それが血脇イズムであり,校舎は血脇イズムで作られていたのだ。そして現在も血脇イズムは実習,学ラボ,先輩との飲み会,講習会,同窓会,校歌で継承されているのだ。血脇イズムは東京歯科大学の校風そのものであり,暗い,真面目,商売下手,などと揶揄する輩もいるが,それこそ東京歯科のカラーであり誇りなのかもしれない。高山先生の武士の精神,福澤先生の心訓,それを継承した血脇先生の一生懸命,真面目,歯学愛,家族主義その融合こそが東京歯科大学魂,血脇イズムなのだろう。同窓会120周年に向けて益々この気運を盛りあげ継承していきたいと思う。