横浜検疫所旧細菌研究室をめぐる野口英世,血脇守之助(同窓会報第401号より)

神奈川県支部連合同窓会 渡邊 宇一

 横浜市の南部,東京湾に近い金沢区長浜に横浜検疫所旧細菌研究室がある。ここは野口英世が1897(明治30)年,血脇守之助先生はじめ多くの人々の協力を得ながらようやく医師免許を獲得し,高山歯科医学院,順天堂病院,そして北里柴三郎博士の伝染病研究所と職場を変えた後,1899(明治32)年,北里博士から新しい働き場所として推薦されたところである。そしてここでの功績が認められ,初の外国赴任のチャンスを掴んだ思い出の地である。

 建物はその後関東大震災で倒壊したが,現在は当時の面影を模して復元保存され,日本に現存する唯一の野口英世ゆかりの研究施設として貴重な存在になっている。明治中期,わが国では外国との交流が盛んになるにつれ検疫の重要性が認識され始めた。今は埋め立てが進んだが,かつてはここからすぐ先は海で,沖合に停泊中の外国航路の船に小舟で乗り込み,船舶の検疫を行い,伝染病患者の有無を調べることがこの検疫所の防疫上の重要な業務であった。

 海港検疫医官補としてここに赴任した野口英世は,その年の9月,折しも横浜港に入港しようとしていた「アメリカ丸」の清国(中国)人乗員2名から,検疫所初となるペスト患者を発見し隔離するという成果を上げた。当時清国の牛荘ではペストが蔓延していた折りであった。国際予防委員会から内務省を通じて牛荘への医師派遣要請を受けた北里博士は,ペスト患者発見の功により,野口を一行に加えた。ところが十分すぎる支度金が支給されたにもかかわらず,これまで高利貸にかなりの借財があった野口は,その取り立てによってたちまち無一文になってしまった。友人たちもまたかと呆れて相手にしなかった。そこで頼るのは恩師の血脇守之助先生であった。

 野口英世没後10年ほど経た1937(昭和12)年,血脇守之助先生は,雑誌「婦人之友」9月号に,「子供のための新偉人傳野口英世」として野口英世の伝記を寄稿した。そのなかで血脇先生は野口を,「極貧の家に生れ,學歴とては僅かに高等小學校を卒へたのみであり,大火傷を受け不幸な運命を負ひながら,持つて生れた天才と常人の及び難い忍耐と努力によつて獨學自習,一歩一歩運命を克服し開拓していつたことはまことに驚歎すべきこと」と紹介している。そして,清国派遣当時の経緯をこう記した。

 「ところが例の浪費癖で出立前に旅費の大半をつかひ込んでしまひ,いよいよ出立といふ時には,一錢もないといふ始末。私は妻の着物を質に入れて十五圓借りて彼に與へたが,さすがに彼はそのうち五圓だけ持つて,やはり私が與へた古鞄と赤毛布をかゝえ,夏服のまゝ悄然と立つていつた」。

 野口が清国へ出発したのは10月だったので,夏服姿がよほど寒そうに映ったのであろう。そして古鞄と赤毛布とともに,「世の中は五分の真味に二分侠気あとの三分は茶目でくらせよ」と,歌を贈って清国へ送り出した。この歌が詠まれた背景にはこのような事情があった。血脇先生はこの歌が気に入ったとみえ,後年折に触れ随所で披露し,血脇語録として最も有名なものの一つになっている(同窓会報400・401号参照)。

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