草創期の歯科界をリードした石塚三郎の日誌に見る「天長節事件」について(同窓会報424号より)

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6 脱会問題の解決に向けて

 所謂「天長節事件」から発展した「脱会問題」の解決の糸口も見えぬまま年を越し、石塚会長並びに執行部は正念場を迎える事になった。
 「1月2日」高田町・山本允義、江川鈴弥の両氏から役員会開催についての相談あり、「1月16日」長岡館で開催する事に決定した。
 一方石塚会長は「1月4日」高田、新潟の役員と相談し、脱会者に関する法令の研究、会則違反者に対する罰金とその徴集方法について日本連合歯科医会・榎本積一氏や血脇守之助氏に質問、調査の依頼状を発送したり「1月5日、8日、9日、10日」とほぼ毎日脱会問題に終始している様子が窺える。
 「1月11日」恒例の長岡市杏林会(長岡市医師会、歯科医師会の親睦団体)の新年宴会が開催された。
 出席者37名、白井、永井の両氏も出席。会宴後、長岡病院長・谷口博士から石塚会長に「歯科医師会脱会問題」に付、「公平なる判断のもとに仲裁の労を取りたいから委任されたし」と申込みあり、立会人として神谷医学士を推薦された。

明治43年1月18日付「県歯科医師会役員会」の新聞記事

 石塚会長は即座に「平和の解決を見る事なれば挙って貴下に一任する」と返答している。然し白井徳蔵氏は「何れ考えたる上、両三日中に返事をする」と退席したが返事なく、結局「1月24日」谷口博士は白井氏を誘い晩餐を共にし、斉藤庄三郎氏を立会人として「平和の解決をしたい」と懇諭せられたが、「12月21日」に掲載された「石塚三郎会長の県歯科医師会は不法に付き脱会す」の広告文を取り消す広告文、即ち「今般知己友人の懇談により県歯科医師会云々の広告を取り消す」を提示した処、脱会「云々」の2字を削除しなければ謝絶するとし谷口博士に依る仲裁も不調に終ったようである。
 この間、会長以下役員一同は英知を絞り会合を重ね、行政の情報も収集し、それらを踏まえて「1月16日」長岡館に於て役員会を開催した。
 ここで決議した事項が「1月18日」の新聞(社名記載無く不明)に掲載されたのである。

 『県歯科医師会役員会、一昨16日午後長岡館に開会、出席者は江川鈴弥、辻沢俊隆、山田利充、山本允義、塚田二郎、倉地実雄、高野季八、石塚三郎の諸氏にして、石塚会長座長となり、白井、永井両氏の脱会顛末並びに内務当局の意嚮(意向に同じ,おもわく、考え)を左の如く報告し、
 1)歯科医師会は脱会を許さず。
 2)歯科医師会員にして会則に違反し、会議に於て過怠金を徴収すべきものと決したるときは、会員は之を支払はざる可からず。若し其義務を果さざる時は民事訴訟によりこれを解決すべし。
 3)歯科医師会成立したる以上は、其地に開業せる歯科医は必ず会員の義務あるものとす。
 4)歯科医師は相当の手続きをなせば法人たることを得。
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 議事に入るや江川、辻沢、倉地の諸氏より右の報告に付き質問し座長之に答へ(ママ)且つ此際委員を挙げ、内務当局の意饗を永井、白井両氏に告げて反省を勧告しては如何と提議し、一同之を賛し、委員に倉地実雄氏を挙げ、辻沢俊隆氏は個人として白井、永井氏を訪問したる上、再び開会、倉地氏より白井は不在、永井氏を訪問し衛生局長の意見を通告し反省を求めしも、永井氏は法人にあらざるもの也とて、該意見書を否認せる旨を報告し、次に決議をなしたり。
 (1)白井徳蔵、永井権吉両氏の脱会広告は、横暴不穏の行為にして本会の対面威厳に関するを以て不法云々の広告を取消さしむる事。取消文は、北越,越佐両新聞へ各7日間特別広告をなさしむる事。
 (2)白井、永井両氏の脱会行為は法令誤解の結果と認めるを以て、役員より充分説得する事。
 理由:白井、永井の両氏は其主旨を極めずして漫に非医保護者の保護を敢てし、巧みに言を天長節の佳辰に托し、召集に応ぜざるを言明し、本会の開会に妨害を試み、流会を謀りしも其の遂行成らざるや不穏の暴動を以て議場を乱し、脱会を宣言し退場せられたる行為に対し、本会の之に向て反省を促しその罪を謝せしむるの決議をなしたるは極めて温和の処置と云はざる可からず、決して両氏の主張せらるる如き横暴不当のものにあらず。然るに両氏は好意的幾多の忠告を排斥し且つ不法にも歯科医師会脱会を新聞紙に広告した。
 これは、内務省令第8条(註:歯科医師会規則・明治39年11月17日・内務省令第34号、第8条とおもわれる。)を無視したことになる。即ち、「官立若ハ公立ノ病院ヲ除ク外自己又ハ他人ノ診療所、治療所若ハ其ノ出張所ニ於テ歯科医業ニ従事スル歯科医師ハ総テ其ノ所在地ノ郡市歯科医師会ノ会員トス。
 前項以外ノ歯科医師ト雖モ会則ノ定ムル所ニ依リ歯科医師会会員ト為ルコトヲ得、」とあり「必要ト認ムルトキハ前2項以外ノ歯科医師ニ対シ歯科医師会加入ヲ命スルコトヲ得、」とあり「必要ト認ムルトキハ前2項以外ノ歯科医師ニ対シ歯科医会加入ヲ命スルコトヲ得」とあり、脱会はできないという意味が含まれていると考えられるが是を無視した。従って本会としては黙過し得ざる処なるも、要するに両氏今回の行為は法令の誤解に起因するものなれば、役員会は好意を以て充分両名を説得し、其了解を得るに至らば自然不法脱会の広告も取消さるるや明らかなり。
 (3)役員外より2名の忠告員を選定し、両氏に反省を求めしむること。(忠告員は竹内清平、八百枝康三の2氏に依頼すること)
 (4)会員全部へ両氏の脱会始末を報告すること。
 (5)以上の事項を履行するも猶ほ反省せられざる場合は、、臨時総会を開催し相当の処置を執り県知事へ其顛末を具申する事。
 右は新潟・辻沢幹事より同市会長一同の希望也とて提言せられたるを以て役員会は其厚意を容るる事となせり』

 この長文の掲載文は日誌にしっかりと貼付され、「午後7時30分、高田町・江川、倉地の両氏帰途に就かれたり、辻沢氏は、8時25分、寄港せらる」と記述している。「1月16日」の役員会の決議を踏まえて、仲裁役の谷口博士と石塚会長はさらに努力を重ね続けた。
 日誌によれば『1月24日」午前、谷口博士来訪、白井、永井両氏脱会の件に付、役員会の決議に猶平和の解決を告ぐる余地あるやを問はる。余之に答えて曰く、県歯科医師会不法脱会の広告を取消されなば宣しからんと思う。
 博士、然らば是より白井氏の意志を確かめ、若し望みあらば今夕電話にて申上ぐるに付、速やかに来会せよとの事と立分かる。午後4時、博士より電話にて、5時来会せよ、白井氏と晩餐を共にし、斉藤庄三郎を立会人として、平和を告げたしとの事なり。午後5時、斉藤、白井の両氏及び余着席。谷口博士より、白井氏に対し、脱会の不穏当にて我儘千万の申分なる旨,懇諭せられ、白井氏をして脱会広告を取消さしむる事となり、左の広告文を起字せらるるや、白井氏、云々の2字を削除せられたしと請求し、若し削除なき上は断然御説諭を謝絶する旨頑張られたり』『今般知己友人の懇談により県歯科医師会脱会云々の広告を取り消す。白井徳蔵 永井権吉』
 『余、之に対し、白井氏の主張せらるる云々の2字(不法)を除かれ候ては、小生が今夕列席したる名義更に立たざる次第ならずやと反問し、結局、4~5日間熟考、相談の上、更に博士へ返答可致事となし、今夕は何等の約束を見ずして文袖せり』と不調に終った次第を記述し、さらに「1月25日」には、山田、高野の両氏が白井氏を訪問し、役員会決議の義務を果す様進言し、「1月26日」には、高田へ電話にて谷口博士の調停の模様の報告をし、「1月29日」には、高田から脱会問題の解決は、去る16日決議之通りならばよろしい、さもなければ、応じられない旨の電話回答を得、早速この夜、谷口博士へ通知したところ、「役員の主張尤もなり」とて明朝白井氏を呼び、最後の交渉可致旨返答あり、と詳細に記し、谷口博士が最後の交渉に賭ける気持がひしひしと感じられる。
 日誌によれば、『1月30日、新潟・竹内、清水の両氏、三条・八百枝氏来訪せられたり。
 時に午前8時20分なり。午前9時10分頃、谷口博士より電話にて、今朝白井を呼び、最後の忠告を試み居処、結果左の広告文ならばとの事に承諾せられたり此の際、役員側にも当分寛大の処置せられては如何との事故、然らば、一応高田役員に相謀りたる上にて、更に確答せんと。此旨、竹内、清水、八百枝3氏に報告せるに、何れも結構なりとて賛成せらるるを以て、高田町・江川氏へ電話にて事情を相告げ、結局同道せらるる事に相成り、此旨谷口博士へ返答せしに、博士も大に喜ばれ、早速白井氏へ通告し、正午を期し、常盤楼に懇親会を開く事となれり』

『今般知己友人の調停に依り県歯科医師会脱会云々を取り消す
白井徳蔵 永井権吉
右北越・越佐両新聞へ特別広告3日間掲載すること』

 午後2時より、常盤楼に於て懇親会相開き、谷口博士の調停に関する報告ありて、宴に移り、竹内氏の歯科医師会万歳三唱、石塚会長の谷口博士並びに尽力諸氏一同の万歳三唱し、和気藹々の中に散会せり。と列席者名も記述して喜び合っている様子が窺える。
出席者:谷口吉太郎、川上政八、茨城正七、池野長太郎(以上医師会)
竹内清平、八百枝康三、清水弥五郎、山田利充、塚田二郎、高野季八、白井徳造、永井権吉、石塚三郎(以上歯科医師会)

 しかし、「2月1日」本朝,新紙を見るも取消広告なし、と記述しているところから、石塚会長は一瞬どんな思いであったろう。午後になって谷口博士より電話あり、白井氏は、新潟県歯科医師会からも責任ある証言を望む由にて、広告はそのままになし置くとの事なり。依て谷口博士は次の文面を起字せられ、取消広告と一諸に掲載するように配慮して下さった由である。

日誌に貼り付けた谷口吉太郎氏の投稿文

 『昨年11月3日、県歯科医師会(臨時)総会以来会員・白井徳蔵、永井権吉両氏と会との間に感情の衝突あり、終に昨年末両氏の脱会となり、爾後益々紛擾を重ね、屡々仲裁の労を採りたる人ありしも、常に無効に帰し、両者の間隔益々甚しかりしが、長岡市医師会有志者も之を傍観するに忍びず、両者の間に奔走尽力せる結果,漸く両者の意志も疎通し、態々(わざわざ)新潟より来岡せる清水、竹内両氏及び三条より来岡せる八百枝氏と去る1月30日、常盤楼に会し、当市在留の役員及び白井、永井両氏と会合し、調停者一同を代表して余より従来之経過を報告し、且つ左の条件の下に円満なる解決を告ぐべく報告し、一同之を是認し、県歯科医師会の万歳を三唱し、石塚会長と白井氏の握手となり、調停者の万歳を三唱して快飲散会したり。条件左の如し。
 1)白井、永井2氏は調停者の作成せる広告文を北越、越佐両新聞紙に特別広告3日間掲載する事。
 2)会は今般両氏の脱会一条に関し、次期総会に於て一切不問に置く事。
 (この件は調停者に於て役員の責任を保留する事)

 以上列席調停者名・川上政八、茨城政七、池野長太郎』また別枠に『脱会云々の件を取消す白井徳蔵、永井権吉』の文面が3日間掲載され、事件発生から約3ヶ月ぶりに平和に終息した。

新潟県の地図について

7 むすび

 わが国の歯科医学史を探る上で、極めて貴重な資料が漸く日の目を見る事が出来た。近代歯科医学草創期の混乱ぶりは、全国津々浦々に発生したが、その裏付けとなる資料は今日まで発表されていなかった。
 石塚三郎は、どんな思いでこの「日誌」を保管し、戦時中、生家に疎開させたのであろうか。感情にとらわれず、只管会員の業権を守る為に非歯科医を警察や司直の手に委ね、所謂「天長節事件」で苦渋を飲まされながら、平和裏に解決しようと努力した。また、総会には毎回講演会や会員による研究発表を勧め、石塚会長自らも発表している事など、当時の新潟県の歯科界の現状を知る一級資料と考えられる。
 稿を終るにあたり、故石塚三郎先生のご冥福をお祈りし、半世紀もの長い間、保管に心掛けられた生家の方々、日誌解読に終始ご指導下さった東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会の吉沢信夫氏、吉田東伍記念博物館前館長・渡辺史生氏,同博物館故唐橋久美子氏、「医の博物館」樋口輝雄氏、日本歯科医史学会名誉会員故森山徳長氏に深甚なる感謝の誠を捧げるものである。

参考文献
 石塚三郎収蔵明治40年9月以降(新潟県歯科医師会)「日誌」
 石塚三郎収蔵明治40年9月以降(新潟県歯科医師会)「会員名簿」
 新潟県歯科医政史・新潟県歯科医師会編纂
 平成5年(1993)東京歯科大学同窓会会員名簿

第1回、2回、3回新潟県歯科医師会総会集合写真



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