同窓会の歴史を訪ねて-その1-(同窓会報第400号より)

副会長 財部 正治

 同窓会創立120周年記念事業を前に,同窓会ではこれまでの道程,特に黎明期の歴史について調査と検証を進めている。その中で,目新しい事実がいくつか浮かび上がり,視察を行った。その一部を紹介する。

1.阿賀野市立吉田東伍記念博物館

 平成26年10月号の会報に「血脇守之助が三条に滞在しなかったら東京歯科大学の血脇守之助は無かった」(阿部晴弘P15~20)の原稿で,吉田東伍記念博物館の存在が紹介され,以来同窓生に注目されるところとなった(図1)。吉田東伍博士は明治40年「大日本地名辞書」を編纂した日本歴史地理学者で,その業績を記念して建てられたのが当博物館である。吉田東伍は同窓の石塚三郎の後援者であったことから,石塚の遺品も数多く保管されている。
 石塚三郎は血脇守之助のもと高山歯科医学院で野口英世とともに苦学を重ね,歯科医術開業試験合格後,母校講師を務めている。その後長岡で開業し,歯科医師法制定・施行に尽力し,また新潟県歯科医師会初代会長を務め,新潟市内に日本初の歯科病院を設立した。大正3年からは衆議院議員を2期務めており,野口英世がアフリカで殉職した後は,その偉業顕彰に余生を捧げている。石塚は,アマチュア写真家としても草分け的存在として有名で,撮影したガラス乾板がこの博物館に数多く残されている。血脇守之助の経歴を語るにあたりこの写真が非常に貴重な資料となっている。

 博物館は磐越自動車道安田インターにほど近い,新潟県阿賀野市保田にある。4月19日,新潟県支部のご協力をいただいて本部理事会で視察を行い(図2),合わせて館長の渡辺文男氏にご講演をお願いした(図3)。
 石塚の遺した写真原版には,風景,風俗,人物,建造物,乗り物,動物,植物などがあるが,時代を越えて非常に芸術性の高い作品が多い事には目を見張る。これまで大学関連で何気なく見ていた写真も,実は石塚の作品がかなり多いことがわかる。歯科医学資料としても症例写真,治療風景,標本など,貴重なものが遺されているようである。
 講演では血脇守之助と,それにかかわる野口英世と石塚三郎の新潟での足跡を中心に解説された。その根拠は石塚の写真のきめ細やかな分析により裏付けられている。写真には人物,場所,時期,時間など多くのヒントが隠されていて,その調査が地道に進められている。

 山間の駅のホームでの野口と石塚の記念写真が残っており,これまでの通説では,磐越西線の野沢駅とされてきた。しかし写真分析と現地調査の結果,日出谷駅であることが最近判明した(図4)。この調査には,新発田市で開業されている同窓の佐藤泰彦先生(昭和25年卒新発田郷土研究会会長)(図5)も協力されており,これは単なる誤りではなく,野口の恩人渡部鼎(野口の手の手術を施した医師)の出身地での撮影とする石塚の演出であったのではと推測されている。この顛末については,平成26年12月17日の新潟日報に詳しく取り上げられている。

 人物写真には血脇,野口はもとより,当時日本の中枢で活躍していた人物も写しこまれている。その中でいまだ特定ができない人物も多く,それらが今後の調査で明らかになれば,写真の価値がさらに増加し,歯科界の歴史探訪も一層前進するものと期待される。
 博物館には,血脇守之助の書簡が2通保存されている(図6)。どちらも血脇の新潟県三条町での動静を具体的に記したもので,極めて重要な資料である。翻字作業,読み下し文,釈文作成が施されており,これは渡辺館長と唐橋久美子氏の努力によるものである。

 歯科界とは全く無縁のように思われる歴史地理学者を記念した小さな博物館であるが,血脇,石塚など黎明期の歯科界を,特に東京歯科大学の歴史を深く知ることのできる情報を持つ貴重な施設である。今後,吉田東伍記念博物館,野口英世記念館,および新発田郷土史研究会が連携して,さらなる成果が得られることを期待したい。
 博物館に近接した瑠璃光院に石塚の墓があり(図7),佐藤泰彦先生と小見顕先生(昭和56年卒新宿支部実家が瑠璃光院に近接)(図8)のご案内で,一同お参りさせていただいた。(資料使用に対する許諾写資No.150509)

2.高山歯科医学院跡と高輪万清楼跡

 地下鉄白金高輪駅から魚籃坂を上り,頂上に伊皿子交差点がある。これを渡った左側が高山歯科医学院の跡地である(図9)。現在ではファミールグラン伊皿子坂という大きなマンションとなっている。交差点の傍らには「歯科医学教育発祥の地」の石碑が立ち(図10),碑文には髙山紀齋が明治23年にわが国最初の歯科医学校を設立したことが記されている。道は下りとなり伊皿子坂と名を変え,S字状にカーブしながら右手に泉岳寺を見て,やがて第1京浜国道にT 字路で交わる。この交差点手前右側に高輪ホワイトマンションがあり,ここが万清楼の跡である(図11)。
 万清楼は明治28年6月,高山歯学院院友会が行われた,そして同窓会が産声を上げた場所である。にもかかわらず,実は所在地は最近まで特定できなかった。数年前,同窓会からの依頼を受けた近藤保先生(昭和48年卒・芝支部)が調査を繰り返し,ある日港区内の図書館で偶然にも万清楼の子孫の方と邂逅し,大きな成果を得ることとなった。(「温故知新万清楼を訪ねて」第1回高山歯科回学院医学院院友会(現東京歯科大学同窓会)明治28年)6月16日於芝高輪料理茶屋「万清楼」同窓会報27年2月号P12~15)
 その後,当日の天候や献立までも明らかにされたことには頭が下がる。
 この場所は海岸に沿った東海道に面し,泉岳寺の入り口である。明治28年にはすでに東海道と海岸線の間に鉄道も敷かれており,鉄道唱歌「右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ…」にあるように,汽車の車窓から泉岳寺とともに,万清楼も見えたに違いない。
 近くには旧高松宮邸,東京都指定旧跡「大石良雄外十六人忠烈の跡」,同「旧細川邸のシイ」などもあり,散策にも心地よいところである。

3.東京都慰霊協会復興記念館

 平成26に発行された岡山県支部の会誌に高山紀齋の胸像について詳しく記載されている。(-岡友会の歩み-高山紀齋先生の銅像について(その1) 会誌29/2014東京歯科大学同窓会岡山県支部)
 明治43年,高山紀齋60歳の誕生日を記念し,東京歯科医学専門学校で氏の銅像の除幕式が行われた。この胸像は朝倉文男の作品で,母校の白山通りに面したところに設置されていた。大正12年9月1日の関東大震災により,水道橋の校舎は焼け落ち,胸像も大きく破損した。その後,胸像の残骸は震災の遺品として東京・両国の復興記念館に陳列されている,との記述がある。

 東京・両国の復興記念館は蔵前橋通りと清住通りの交差点にある(図12)。岡山県支部の情報に従い,当記念館を視察したところ,高山紀齋の頭部の溶解した胸像が「東京歯科医学専門学校寄贈本品は本校創立者高山紀齋氏の胸像にして大震当時基礎台より墜落破壊せし後校舎の火災と共にその一部を熔解せられたるものなり」の立札と共に,数々の震災遺品の中に展示されていた(図13)。同館調査研究員の方に話を伺うと,この胸像が高山紀齋のものであることは承知しているものの,頭部がどのようなお顔であったか,またこの胸像に秘める歴史についてなど,ほとんど情報がない様子であった。

 岡山県支部会誌を示したところ,胸像前に血脇守之助と野口英世が映っている写真(図14)を,胸像と共に展示したい旨の申し入れがあった。これが実現すれば記念館ばかりでなく,大学や同窓会にとっても有意義なことである。現在,この写真が胸像と共に展示されるよう,手続きが進んでいる。

 我々のすぐ身近に同窓会の歴史を偲ぶことのできるところがある。120周年を迎えることでこのような場所を巡ることにより,過去に目を向けながら,合わせて同窓会の将来を考えることも一興かと思われる。