「野口英世は死なず ~永遠のノーベル賞候補 最後の帰国から100年~」
UX新潟テレビ21で,血脇守之助・石塚三郎両先生が紹介されました(同窓会報第400号より)

常任理事 小池  修

 平成27年5月2日(土)16:30~17:25,新潟県内でUX新潟テレビ21(テレビ朝日系列)にて「野口英世は死なず ~永遠のノーベル賞候補 最後の帰国から100年」という番組が放送されました。今からちょうど100年前の1915年9月5日,野口英世が15年ぶりに日本に凱旋帰国しました。これを記念してこの番組が企画されました。野口英世が世に出るために尽力した人々,特に本校の血脇守之助および石塚三郎の両先生がどのように野口先生と関わったかを詳細に明らかにしています。
 東京歯科大学および東京歯科大学同窓会は,血脇・石塚両先生の功績をより広く知っていただくチャンスとなるこの番組の意義に賛同し,協賛をしました。新潟県内だけの放送だったのは残念ですが,11月29日の120周年記念祝賀会の記念品として番組を編集した「血脇守之助物語」のDVD を作成中ですので,ご期待ください。それでは,番組の概略をご紹介します。

 野口英世の母シカを,ランプの光の下撮影する石塚三郎。石塚は,写真を添えて帰国を促す手紙を野口に送ります。野口は,母シカの手紙と共にこの写真を見て15年ぶりの日本帰国を決意します。

 ここでレポーターを務める三田村邦彦氏が登場し,三人の人物を紹介します。一人目は野口英世(演じるのは新潟在住昭和61年卒の常木哲哉先生)で,石塚の申し出で新潟と長岡での講演を行ったと語ります。次に血脇守之助が登場し,越後に英語教師として赴任した時に歯科医師という職業を知り,これを目指すこととなりました。野口とは会津に出張診療に訪れた際に初めて出会い,上京したら訪れるよう話をしたとのことです。最後は石塚三郎で,野口と高山歯科医学院時代に起居を共にし,友人として生涯を過ごしたとのことです。写真家としても著名であり,帰国時の野口に同行して撮影し記事を表し,国内でその業績を紹介しました。
 三田村氏の案内で,福島県猪苗代町にある今年4月にリニューアルオープンした野口英世記念館が紹介されます。野口の生家をはじめとして,野口ゆかりの品々が時代に沿って展示され,その生涯と業績をくわしく知ることができます。中でも母シカの手紙の実物が見られ,朗読のナレーションが流れます。さらには細菌学の意義と発展の流れがわかりやすく学べます。
 次に東京歯科大学水道橋校舎に移り,野口が関東大震災の後にニューヨークから大学の激励のために送った「高雅学風徹千古」の書と,学僕時代に授業の開始と終了を知らせるために鳴らした鐘など興味深い品々が紹介されます。

 血脇と会津で知り合った野口は上京し,新潟県長岡市出身の長谷川泰が創立した済世学舎で医学を学んでいましたが,生来の金銭にルーズな性格が災いし生活費を使い果たして高山歯科医学院の血脇を訪ねました。血脇は何とか学僕として寄宿舎に潜り込ませることにしました。ここで石塚と知り合い起居を共にし,生涯の友となりました。医術開業試験に合格すると,北里柴三郎の伝染病研究所に勤務し,細菌学の研究を開始しました。その後,横浜の検疫所でペスト患者を発見するという大きな功績を挙げました。これが評価されアメリカ留学が決まりますが,その直前に渡航費用を使い果たしてしまい,血脇のもとに駆け込んできました。この時のことを高添一郎名誉教授が「絨毯を売り,高利貸しまで使って渡航費用を工面して,獅子がわが子を谷底に突き落とす心境で送り出したろう」と語っておられます。

 ロックフェラー研究所で大きな研究成果を挙げていた野口ですが,1915年生涯一度の凱旋帰国を果たします。日本各地で講演を行った野口は,再渡米前に石塚の誘いにより新潟大学医学部で講演を行い,翌日には長岡市の北越新報社と長岡病院を訪れました。新潟県阿賀野市の吉田東伍記念博物館には,石塚三郎が口述筆記し北越新報社に掲載した野口の生い立ちからの半生を綴った記事のスクラップが保存されています。この記事がその後の野口英世の伝記の元本となりました。また当時の世相を映した約3,000枚のガラス乾板も収蔵されました。石塚は野口の新潟講演を写真と共に記録に残し,後世に伝えることを大きな目的としていたと考えられます。
 血脇守之助は1922年歯学教育制度視察のため渡米し,野口と再会します。野口の計らいでハーディング米大統領を表敬訪問し,野口の後見人として紹介されました。野口は「血脇さんの恩義を忘れたことはありません。そして恩義の帳消しはありません。」と語り,米国滞在中は付き切りでお世話をしました。
 石塚三郎は国会議員も務め,また野口英世記念会の理事長に就任しその顕彰に尽力しました。当時学生時代に石塚三郎邸に下宿していた佐藤泰彦先生(昭和25年卒新潟在住)は「世話好きな好々爺で多くの来客があり,にぎやかでした。それでいて,自らを律し静かな生活をされていました。」と語られました。
 野口英世は帰米後黄熱病の研究に打ち込みますが,黄熱病にり患し道半ばにしてガーナにて死去します。51歳の若さでした。
 野口の死から25年後の1953年,石塚は「わが友野口英世」を出版しました。石塚三郎により撮影されたのは世界に羽ばたいた野口英世,その生涯最良の日々でした。これは未来へと引き継がれる近代日本の記憶となったのです。

(写真提供 UX新潟テレビ21)