校旗・校歌制定50周年記念式典とは? YouTubeにUPされた映像って? そして係わった東歯祭の回想。(同窓会報442号より)

1983年 昭和58年卒 水真会 原 泰司

校旗・校歌制定50周年記念映画?

 校旗・校歌制定50周年記念式典が開催されたのは、自分が進学課程2年生の時であり、式典に参加する為に品川界隈に出向いた記憶はありますが、それ以外は全く覚えておりません。そこで自宅にあるこれまで大学や同窓会から配付された種々な記念誌や冊子(写真1)を開いたところ、『東京歯科大学百年史』137ページにこの式典の様子が掲載されてありました。開催日時は1978年(昭和53年)5月23日の火曜日、品川スポーツランド・ゴールドホール(現品川プリンスホテル?)にて行われております。

 記載では、校歌制定にあたって大活躍された更始会(1928年昭和3年卒 33期)から、校歌を刻んだ記念銅板を大学に寄贈したいという申し出があり、最初は水道橋校舎中央ホールで式典を行う予定だったようです。しかし単なる記念銅板の授受に終わらせるのではなく、学外の大会場にて校歌を全員で合唱して一門の結束を固める気概を示そうと、この式典が企画されたとのことです。
 管弦楽部のファンファーレと校歌演奏のオープニング、高木圭二郎副学長の開会の辞、金竹哲也学監の経過報告、松宮誠一学長の式辞に続き、校旗入場、全員で校歌を合唱し、演劇部が校歌制定当日の模様を再現、銅板の除幕式の後来賓の祝辞。髙橋庄二郎大学病院長が式典閉会の辞を述べ祝賀会に移行、同時に運動会が開催されたと記されております。
 以上が校旗・校歌制定50周年記念式典の概要でありますが、今回この式典のことを改めて調べ、そして文章にする思いに至ったのは、多方面から「あの校旗・校歌の映像がYouTubeで見ることができるよ。」との話が飛び込んできたからであります。確かに『東京歯科大学校旗・校歌制定50周年記念映画/学生生活編1,2 教職員・施設編』と題しUPされており、同窓会会報や同窓会ホームページにも紹介され始めました。校旗・校歌制定記念映画とのタイトルですから、最初は式典の映像と思われる方も多かったのではないでしょうか。そこでこの映像に関してほんの少し事情を知っており、そして撮影、編集を行った兄から以前聞いた話を記そうと思った次第であります。当然記憶違い、勘違いもあるでしょうから間違っておりましたらご容赦願いたいと思います。
 まず、最初に今でも行われている東歯祭、すなわち東京歯科大学の学園祭に関して触れる必要があるかと思います。この学園祭は大学側が日程のみを年間行事として組んではいるものの、毎年必ず学生に実施させている訳では無いのです。近年は土・日曜日の開催のようですが、当時は11月3日の文化の日を含み5日間ぐらいの期間ですから、実施しない方が休講とはならないので大学にとっては逆に好都合だったかも知れませんが。
 学生会である総務委員会が春頃に東歯祭準備委員会を立ち上げ、大学側に学園祭を開催するにあたっての目的、趣旨を説明し、全学生に参加させることを条件に実行する許可を得ます(学部4年生は登院実習があるので参加を省かれた?)。承認されればその後実行委員会が組織され、具体的な準備をしていきます。学祭期間中は先に記載のように講義等は休講になる訳ですから、来校せず自由に過ごしたり、中には旅行に行ったりする学生もいたでしょう。しかし、前記のように学祭中は全学生が参加することを条件に大学側に認めさているので、本来なら学生は登校して何らかの形で東歯祭に参加しなければならないのです。
 1978年(昭和53年)時の総務委員長である髙田俊彦先輩や東歯祭実行委員長となった村山利之先輩(共に1980年昭和55年卒 翔蜻会)の方々がこの東歯祭の準備と並行して、校旗・校歌制定50周年記念事業の一環として、当時の大学の様々な様子を映像として留めておきたいという意図でこの映画が作られたのであります。
 5月の記念式典後の撮影開始ですから、式典の模様は記録されてはおりません(個人的には運動会の様子を見たかったです)。
 作成に携わったのはオープニング、エンディングロールに流れておりますが、そういう理由で総務委員、東歯祭実行委員の方々が主流となります。ナレーションは花岡洋一先輩(エルヴィス花岡氏 1981年昭和56年卒 水公会)。将来観た際に当時を回想できるよう大学界隈の街並みも併せて撮影され、BGMも当時流行していた歌謡曲やドラマ主題曲などを意図的に使用したそうです。
 8mm撮影隊と称し撮影したのは、主に私の兄である原 裕司氏(はらひろし。1983年昭和58年卒 水真会。常に米軍払下げミリタリールックの装いで学内では何かと有名人であり、アマチュア・アニメーションの世界でも既に頭角を現していたようであります)が、記録の為に大学から購入してもらった8mmフィルムカメラを使用したようです。教職員編はともかく学生編において何故各学年の講義中、実習中に堂々と学生である兄が咎められることもなくカメラ担いで入室し撮影することができたのか。実は兄は留年しており、すべての授業に出席する必要は無かったのです。留年となってしまったので少ない教科ではありませんが、当時進学課程においては取得出来なかった教科講義のみ受講し出席日数をクリア、試験を受け合格すれば進級できたのであります。当然大学側の許可は得ておりますので、受講しなくてよい教室に入室して撮影出来た訳です(2年前に大学に入学していた兄と私は結果同級生となりますが、愛知県瀬戸市の実家の落胆たるやいなや。いわんや母親においておや)。
 完成した映像の映写機使用での上映会が、数回市川、稲毛新校舎にて開催されたとは聞いております。
 この映画が映るVHSビデオテープ2本(学生編と教職員編)を兄から譲り受け暫くは手元にありました。このビデオテープは、8mmフィルム映写機にてスクリーンに投影したものをVHSビデオカメラで音声ともども録画したものだそうです。映像が上下左右若干フレームアウトしており、音声も鮮明ではないのはこの為です。自分はクラス会の懇親会担当をしていることもあり、関わりのある個所のみこのVHS映像を編集し、1996年(平成8年)の懇親会にてビデオデッキとTVモニターを使い上映したこともあります。
 8mmフィルムは図書館に保管されているという話もありますが、保存されていたとしても当然劣化しているでしょうし、再生できる映写機も簡単には調達できない。ビデオテープも同じく劣化が進み、いずれ再生デッキも生産中止になるであろうと考え、兄と相談しデジタル化にすべく業者に頼んでDVD変換してもらいました。これが2003年(平成15年)のことであります。
 この出来上がったDVDは、PC等で自分でもクローン作成可能ですから、作成に係わった諸先輩方、クラス会(水真会)に参加してくれた同級生や、撮影当時は1年生となる一つ下の学年破竹会の代表の方々にも渡していきました。
 その後、このデジタル映像がゆっくりと一人歩きしたのでしょう。2024年(令和6年)になってインターネット上で視聴可能となったわけです。YouTubeにUPされた方は投稿者名から、村山利之先生の同期で、千葉でご開業の川野壽彦先生と推測できます(間違いでしたら大変申し訳ございません)。先生はMLS在籍で近年の同窓会会報に、OBコンサートに出演されたと掲載されておりました。今の後輩方はどうでしょう、私共は学生時代、いや今でも先輩、後輩のことを何々部の誰々さん、君と呼称することが多く、名前の最初に所属クラブ名を付けることで同姓の方でも個人特定が確実にでき、滞りない会話が可能となります。当時1学年160人程度で在席学生数が1,000人に満たない単科大学にしては、運動部や文化部そして同好会数が多く存在していると思います。2、3部を兼任している方もかなりいましたし、各部のOB会も活発でした。映像の中でも長時間に渡ってこれら各クラブ部、同好会が学生編で紹介されております。入学式直後のオリエンテーション時に各クラブの紹介がありましたが、実に東京歯科らしいネーミングの白堊会(美術部)、大変珍しい謡曲部などがあり、極めつけは『世の中不思議な研究会、略して世不研』という同好会の紹介には高校卒業したての自分には 「これが大学という所か・・・」とカルチャーショックを受けました。この映像に映った方々や、係わった方々の名前を見ると、「いやー懐かしい!何々部の何々先輩!!」とついつい声を出しながら見入ってしまいます。とりあえずクエン酸回路のみは覚えて試験に臨んだり、ほんの少しシェークスピアを読んだつもりになったり、鉄棒の試験を受けたり、夏休み中に自宅で骨格標本を作るべくカエルを持ち帰ったりと様々な進学課程での記憶も蘇ってきます。

東歯祭について

・市川校舎にて

 市川校舎は平屋建てで、幼稚園のような建物とよく言われておりました(写真2『東京歯科大学同窓会創立一〇〇周年記念誌』より)。しかし道路を挟んで門をくぐると、茶道、将棋、囲碁部などが使用した建物、学食、二階建て合宿所、一階にはシャワールームと洗濯機置き場、そしてサッカー部、ラグビー部、二階には野球部、硬・軟テニス部の部室が入り、併設となる女子用合宿があるクラブハウス、4面テニスコート、ポプラ並木 内面がサッカー、ラグビー用フィールドの400m陸上トラック、体育館そして野球場が広大な敷地内に備わり、課外活動を行うのにかなり充実した施設が併設されておりました。(写真3 同窓会ホームぺージ内、会報401号掲載の1985年昭和60年卒三春会卒業アルバムより流用)

 大学に入学して最初の年の東歯祭では、カー二バルと称して市川校舎のどこかの会場にて当時のアイドル山本ゆかりさんを呼んでのコンサートがありました。自分はこのコンサート会場には入りませんでしたが、ただならぬオーラと可愛らしさを放った女子とすれ違い、ゆかりさんのことをあまり知らない田舎者の私は後にTVで見て「あの子がそうだったのか。やはり芸能人、特にアイドル系は実物を見ると凄いな。」と感じたのでありました。
 校舎から市川駅まで練り歩くクラス単位での仮装行列は界隈では名物となっており、沿道にはかなりの見物者が集まっておりました。教室や中庭等で各クラブ、クラスの模擬店出店などがあり、(空手部:トウモロコシとイカ焼き 少林寺拳法部:たこ焼き ワンダーフォーゲル部:おしるこ 弓道部:弓や etc.)クラスの教室でお化け屋敷などもありました。最終日の後夜祭ではMLSの丹沢朝彦先輩(1978年昭和53年卒 八実会)率いる丹沢バンドが例年プロ顔負けの演奏を披露し大変盛り上がりました。
 進学過程2年生の時には総務委員となり実行委員にもなります。実行委員は開催中警備と称してオレンジ色のヤッケ(写真4 同期荻原俊美先生写真提供。実物を今でも保管していることが奇跡である)を被り、二人一組でトランシーバーを持参、一応安全などを確認しつつ校舎内を見回ります。機器は学生課の方にも渡してあり、またトランシーバーということで、変調可能な無線装置を持っていれば部外者でも受送信可能となりますから(実際近隣の方が交信に入り込んで迷惑行為も受けました。この方にしてみればこちらの交信も迷惑だったかも知れませんが)、何か問題があれば本部に実行委員会しか分からない暗号で通信報告します。学内では大学との取り決めで飲酒は禁止なのですが、とあるクラブの飲酒は常連で、見てしまうとこの際の暗号は「どこどこの提灯が切れている!」「火を使っている!」でこれを発信し、建前上本部から優しく「駄目ですよ!」 と注意警告しに行ったものです。提灯としたのは、期間中は祭りの定番である電灯付き提灯を中庭等に張り巡らせているからです。提灯設置を毎年行ってくれたのは中島林三郎さんや電気設備会社の方々。
 開催期間中は、グラウンド入口から入って左手にある合宿所に寝泊まりするわけですが、女子の実行委員は食事係(炊きだし隊)を兼任し、委員の夕食の準備をしてもらいました。朝、昼は校舎対面のヤマザキパン(親父は怖くて無愛想、奥さんはオシャレ?で優しい)での購入や模擬店の食べ物、近隣の喫茶店、中華料理屋さん、うどん・そばや屋さんで済ましていたのでしょうね、多分。
 これは私だけではなく実行委員特有の症状でしたが、寝不足が一週間近く続くせいか、孫悟空は頭に輪っか(緊箍児 きんこじ と言うらしい)を被せられておりましたが、あたかもこれを付けたままのような状態が終了後も1カ月ぐらい続くという特有な経験もしました。

・丸山圭子さん招致奮闘記

 2年生の時、すなわち1978年(昭和53年)私はカーニバル部門の進学過程での担当となります。前年のようなアイドル系歌手を呼ぶのではなく、バンドを伴った著名なミュージシャンを招いてコンサートを開こうということに何故か決まります。最初は五輪真弓さんを招くべく所属プロダクションに打診したようですが日程、予算が折り合わず、同じ所属だったと思いますが『どうぞこのまま』等ヒット曲で知られ、ボサノバの曲調を得意とする丸山圭子さんを勧められ、丸山さん招致で動きだします。会場は市川校舎敷地内の小さな講堂ではなく、集客のことを考えグラウンド側にある体育館で行うことになります。大学側は偶発事故やセキュリテイー問題を心配し、開催に難色を示しておりましたが、実行委員会上層部やプロダクションの方々の熱意ある説得で許可が下りました。
 さて、体育館内倉庫には高さ約1m、2m四方の可動式演台が3個ぐらいありましたが、これを並べても当然グランドピアノやバンドの方々、機材が乗るだけのステージにはなりません。当時は電話帳ぐらいしか調べる方法はありませんでしたので、かたっぱしに電話にて問い合わせを行い、中央線中野駅外れの業者になんとかたどり着き、ステージを組んでもらうよう依頼しました。演出上、スポットライトを使用したいので暗転出来るようにして欲しいとの要望です。体育館には遮光カーテンが無い為、西側の窓に黒の模造紙を近隣の文房具屋さんで大量に購入し、照明を落とせば薄暗くなるようにしました。会場を暗くすることも大学側が難色を示した理由の一つでもありました。

 公演パンフレットはプロダクション側が確か制作してくれましたが、販売チケットを自作する必要があり、印刷会社に発注する予算はありません。ちょうど『プリントゴッコ』が発売された頃で、これがチケット作成に好都合と白羽の矢を立て、パンフに載ったご本人の写真と活字を組み合わせ制作しました(写真5 丸山圭子さんのベストアルバム。Amazon商品ページより。これ、もしくは類似した写真がパンフに使われており、チケットにも採用したような気がいたします)。
 次に如何にして学外へ宣伝しチケット販売するか。京成菅野駅や市川真間駅付近にて登校、出勤する人々にパンフレットを配り(無許可です)、授業終了後は校舎近隣の家庭を訪問し所謂セールスに行くことになります。良い時代だったのでしょう、門前払いされることは少なく、パンフレットはわりと受けとって頂きましたが、チケットはほとんど売れませんでした。これを手伝ってくれたのは同期でラグビー部、模型同好会の荻原俊美君。彼も私も中・高は男子校のせいか登校する国府台女子高生にかなり躊躇しながらの声かけでした。
 公演に際しクリアしなければならないことはまだまだ多く、例えば体育館ですからアリーナは土足厳禁、結果入口で靴入れ用のビニール袋を渡し入館してもらうことにします。グランドピアノは館内の倉庫に眠っていましたが、ステージに上げるための人手が必要です。ちょうど筋トレも兼ねた『人間モグラ叩き』で出店中?のサッカー部の方々にお願いして、「せーの」で上げてもらいました。しかしピアノは劣悪環境での長期間放置状態です。調律しておいて下さいとプロダクションから言われておりましたが、他の準備で大忙しだったので、これをすっかり忘れておりました。運よく学生課の方(荒川さん?)が、調律師の知人がいるということで公演ぎりぎりの前日に指定のモーツアルト・ピッチでお願いしました。
 公演当日は文化の日だったと思います。近隣への訪問が功を奏したのか、本学学生以外にも一般の方々がぞろぞろと体育館に集まり始め、余っていたチケットは当日完売となり、配列したパイプ椅子は空席がない状態となりました。そんな中、初老の女性を見かけ「本当に良くおいで下さいました。」とお声かけした、というか自然に感謝を伝えたく話しかけました。「私は学生さんたちがこのような企画をしてそれに参加するのが大好き!」という言葉が返ってきて、この方の一言でこれまでの苦労がすべて報われた気持ちになりました。
 心配していたアクシデントは何一つ起こらず、学園祭において、ミュージシャンを招いての恐らく初めての有料コンサートは滞りなく終了しました。
 ただ公演中のことは何も覚えておりません。丸山圭子さんやバンドの方々、マネージャーさんとも会話したでしょうがまったく記憶がありません。 ヒット曲『どうぞこのまま』も披露されたはずですが、これを生で聞けた覚えも残念ながらありません。
 翌日、黒の模造紙を外し数名でピアノを降ろし、ステージ設置業者も撤収しにきて、椅子も片づけアリーナを元の姿に戻しました。
 この2年生の時の自分的にはかなり過酷な体験が理由なのか、その後2年は実行委員を引き受けませんでした。この間の学園祭では、一つ上の落語研究会の難波哲夫先輩(1982年 昭和57年卒 黎明会)が「市川の講堂でのコンサートで歌いたいからバックでアコースティックギター弾いて」と暇そうにしていた私に声をかけてきました。コードがわかればまあ何とか弾けるレベルですが、選曲的にはギター2本が都合良く、少林寺拳法部で同期の平川誓生君にお願いし4、5曲演奏しました。難波先輩の譜面立てには明星の付録の歌本。『神田川』のイントロを弾いて、さて歌に入ると、「あーなたに~ さようならと言えるのは~」と歌い出し、仕込んだのでは無いでしょうが流石関西人です。先出の荻原君も特別(友情)出演でBluesの調べにのって何かを懺悔しておりました。
 また、一つ上の少林寺拳法部 西山 潔先輩(1982年 昭和57年卒 黎明会)の組むバンドを観させて頂きましたが、このバンドには西山さんの弟さん、西山 毅さんがリードギターで加わっており、寺内タケシさんの十八番、『津軽じょんから節』の完全コピー演奏等を間近で見聞させて頂きました。その後毅さんはHOUND DOGに加入されますが、やはりプロに進む方は異次元であると実感いたしました。ベースを大根や豆腐で弾くことでお馴染みだった、東京おとぼけキャッツの方々が後夜祭に登場した年もありました。そして5年生になった夏休み明け、大学は稲毛に移転します。

・稲毛新校舎にて 役割は警備隊長

 1981年(昭和56年)この年の総務委員長はスキー部・模型同好会で同期の小林慶太君、実行委員長は兄(落語研究会・写真部・ワンダーフォーゲル部・模型同好会 まだあるかも)が努めます。準備委員会が立ち上がり、教授会に開催承認を得るため臨んだのですが、委員会で決めたサブタイトル『醫はこれ済世 ひとへに仁か?』(校歌のワンフレーズにクエスチョンマークを付ける)を提出資料に記載したので、教授陣は大激怒。今でこそよく理解できます。めでたく歯科医師となった後の治療中は常に北原白秋先生作詞、山田耕筰先生作曲のこのフレーズが頭の中で鳴り、少なからず血脇イズムの洗礼(写真6 祖父の卒業アルバム 1917年大正6年10月卒 丁巳会 当時の校長は血脇守之助先生)を受けておりますので、その血が体を駆け巡ります。茶化すようなことがあっては絶対にいけません。白紙撤回することで開催の許可がおりました。

 当時私は右足骨折しており石膏ギプス装着状態でしたから、動きが必要な職務ではなく、本部で構える警備隊長の役割が与えられました。やはり開催中は二人一組で学内を回りますが、広い敷地ですから同時に3グループぐらい編成します。このシフト作成も結構大変でした。完成の稲毛校舎には音響効果も優れた講堂が備わり、そのままでコンサートが出来る立派な会場はあります。同期の名倉俊之君(クラブは無所属?)がコンサート担当となります。彼はOff Courseの大ファンであったのですが、勿論学園祭レベル、予算で来ていただける訳もないので、関連ある あんべ光俊さんを招致します(正直皆 誰?状態でした。Off Courseファンでないと分からない方のようでした)。講堂があるにも関わらず開催会場は体育館であり、その理由を今度のクラス会でご一緒しますので聞いてみようと思います。彼も開催においてかなり苦労しておりました。都内ホテルでのダンスパーティーなど催しが盛りだくさんでしたが、主だったものをここに記載するよりは当時のパンフレットを見ていただければ良いかと思います。表紙はここに示しますが(写真7)、このすべてのページは同じくホームページに掲載頂いております。学園祭の為に寄付下さった稲毛、水道橋、市川校舎近隣のお店や歯科関連業者の掲載にも懐かしさを感じるかと思います。このパンフレットを作成したのは同期の新谷益朗君(確かクラブは無所属)。極力活字変換はせず、自筆の文字やイラストを使うことで手作り感を出し、ハイセンスな大傑作だと思います。本業以外で特化した才能の持ち主は、その方をよく「何々にしておくのは勿体ない!」と表現しますが、正にその表現がマッチするクリエーター畑の人だと思います。このパンフレットを提供して頂いたのは、2つ下の後輩、ワンダーフォーゲル部の湯澤邦裕先生(1985年昭和60年卒 三春会)、彼もまた学園祭実行委員の常連で総務委員長歴任者、今は学年代表者を引き受けています。学園祭実行委員会の体育館前における集合写真(写真8)は一つ下の学年、男子バスケット部の長野正弘先生(1984年昭和59年卒 破竹会)が近年クラス会に提供されたものです。両名ともよくこれらを保管していたと感心いたしました。もっともの驚きはオレンジヤッケでしたが。

 この集合写真には現在でも歯科医師会や同窓会等各方面で尽力されている方々の若き姿が多く見受けられます。利他主義を宿す体質はそうそう変わることはないと証明しているというか。そう感じるのは私だけではないと思います。現同窓会副会長兼専務理事でラグビー部、最近はボーカリストも務める小枝義典先生(1984年 昭和59年卒 破竹会)、如何でしょう?しっかり写っておりますね。
 やはりこの学園祭終了後も、私の頭にはしばらくは緊箍児、足には落書きだらけの石膏ギブスが付いておりました。
 後年の東歯祭では後輩たちが歌手杏里さん招致で、講堂での開催許可が下り準備していたようですが、アニメ キャッツ・アイのTV放映が始まり、この主題歌を歌ったのがまさにこの杏里さん。大ヒットで時の人となり、集客をまったく気にする必要はなく大盛況となりました。私は実行委員OBということで会場内警備を頼まれたのですが、準備された席は最前列のど真ん中。良い後輩達です。会場の横や後ろを気にしつつも、この時はコンサートを堪能させて頂きました。
 1990年(平成2年)は東京歯科大学創立100周年の年で、東歯祭も特別なものとなり、丹波哲郎さんを招いての講演(勿論霊界の話)、森高千里さんのコンサート、ラッキィ池田さんのイベントと大変豪華なラインナップだったようです。(創立100周年記念行事・事業記『校旗は燦たり』より)
 だらだらと稚拙な文章で校旗・校歌50周年から映像、学園祭(ほぼ音楽関係中心となってしまいましたが)と約半世紀前の出来事を記載しましたが、大学から発信される冊子や同窓会会報等の東歯祭に係る記事は必ず読ませて頂いております。今回の同窓会創立130周年記念式典のテーマ『つなげていこう未来へ』であります。ぜひぜひこの東歯祭というという学生主体の催しも後世につなげて頂きたいと願っております。
 最後に大変僭越ではございますが、過去、現在、未来すべての時代における総務委員、東歯祭に係わった、また今後係るであろう方々に、そして常に我々の学年をサポートして下さり、ご自身がその年回りになった時には実行委員長として役務を果たした、ジャズ研常磐 修君(1984年昭和59年卒 破竹会)にこの文章を捧げたいと思います。

2025年(令和7年)8月記載