草創期の歯科界をリードした石塚三郎の日誌に見る「天長節事件」について(同窓会報424号より)

<< 1 はじめに 〜 3 新潟県歯科医師会設立の経緯

4 天長節事件の顛末

 新潟県歯科医師会では、「天長節事件」云われる事例が石塚日誌によって明らかになった。それは、明治42年11月3日の臨時総会での議題「非歯科医保護者に関する件」(非歯科医を保護して診療をさせていた。)が発端である。
 明治42年6月25日と7月11日の2回、「高田日報」に以下の広告が掲載され、それを日誌に貼り付けている。
 即ち「歯科手術広告」と題し「生儀今回有志者の依頼により左の処に出張し電気、瓦斯其他多数の機械と小生発見の薬剤とを応用し無痛抜歯、無痛治療、無痛金充、無台の入歯、其他斬新なる歯科手術を行う。  高田御馬出佐藤方、歯科医・渡辺浪江、電話208番」
 また「生等今回有志者と相謀り麻酔注液の発明者にして手術巧妙の聞えある、歯科医・渡辺浪江氏を聘し、最も斬新なる電気機械、瓦斯機械其他多数の機械を整頓し、左記の処に於て無痛抜歯、無痛治療、無痛金充、無台の入歯等凡て完全なる手術を諸人に紹介す。高田警察署前通り、共益堂印房、佐藤関太郎 電話208番」である。この二つの広告文が掲載される前に、またもや高田町に非歯科医事件が発生、しかもこの非歯科医を保護し利用している者がいるとの連絡を受けた石塚は、高田町で役員会を開催することにして7月17日、長岡市から汽車で3時間半かかって到着。早速「非歯科医保護」について協議した。
 保護せし4名の非歯科医は今春歯科医師会を煩わし、苦心の処罰をしたばかりであり、非医(無資格者)を保護している人物(歯科医)は何度注意しても聞き入れずその上、同地区新聞記者や官吏を招き料亭で開業披露宴を催したと言う情報や、この人物(歯科医)が不在にもかかわらず非歯科医が公然と患者の治療をしていた詳細が判明した。」と云う。

【以下の写真は吉田東伍記念博物館蔵石塚三郎日誌より所収】

日誌に貼付した新聞の切り抜き「歯科手術広告」

 また、7月31日付、「高田日報」には「渡辺歯科医院の好評」と題して次の記事が掲載され、その切抜きが日誌に貼付してある。即ち「当町佐藤関太郎方に開業せる渡辺浪江歯科医は、東京歯科学校出身にして内務省歯科試験及び勤後米人ドクトルサワー先生に就き実地研究を重ね、業成りて東京歯科医学校に教授として巧妙なる技術と無痛手術を以て、その名を得たり、御当地開業以来患者頗る多数なり」と。日誌は何故か7月30日以降10月6日迄の2ヵ月余りに亘り空白となっている。巧妙かつ執拗な手口で新聞を利用した「誇大、捏造」の広告記事を出し、公然と非歯科医を保護して挑発して来るしたたか者に翻弄された石塚会長は、自分の思いを書くつもりで居たのかも知れない。
 『ちなみに「渡邉浪江」について「会務名簿」を見ると北魚沼郡小千谷町寺町
とある住所が抹消され高田市呉服町第六一四号、平民、明治十年一月十五日生とあることから小千谷から高田に転入してきた人物と思われる。
 また、「東京歯科学校」は存在しないし、「東京歯科医学校」卒業者の名簿にその名前はないことがわかった。』
 臨時総会は、長岡鉱業会議所に於て11月3日午後2時30分から開催した。その翌日の越佐新報に『本県歯科医会(ママ)臨時総会』の見出しで大々的に報道され、その切抜きが日誌に貼り付けてある。

(本県歯科医師会臨時総会「天長節事件」の報道)

 すなわち「同会は既記の如く昨日午後2時30分、長岡鉱業会議所に於て開き出席者22名にして、会長石塚三郎氏は開会に先ず天長節の佳辰を祝する旨発議して、両陛下の万歳を奉唱し、議事に移らんとしたるに永井某(永井権吉)は、本日の佳節には如此会合は遠慮すべきものなりと主張し、白井徳蔵、渡辺浪江2氏の賛成ありし為、議論続出したるも、結局開会に決し、議題を討議せしも、白井、渡辺、永井の3氏は破壊的言動を試み同会を延期せしめんとしたるも失敗せしに憤慨し、議事中退場せるにより再び静穏となり左の議案を可決し、次回は高田町に開裁事、及び退席者3名に対しては一応忠告を試みその結果により処罰することに決し、後長岡館に於いて懇親会を催し、席上川上警部の演説ありたり。」
 越佐新報の記事を見た長岡市開業の永井、白井の両名は「事実と相違あり」と連名で長文の訂正文を掲載させている。
 執行部は、11月4日夜、後始末について協議し、翌日新潟県歯科医師会の決議として3氏へ反省謝罪を促す次の様な通告状を送っている。
 すなわち『明治42年11月3日開催の本会臨時総会会場に於ける(ママ)貴下の行為は、本会会則を明無視したるものなるを以って処罰可致の処、佳辰当日あるを以て(ママ)、特に反省を促し、謝罪せしむる事に満場一致を以って議決相成候に付、此処及此通牒居也、明治42年11月5日新潟県歯科医師会会長・石塚三郎 (印)』

(明治42年11月6日・越佐新聞「何れか是、何れか非」)

 この通告書は、5日付書留便で3人宛てに発送されている。従って6日付の越佐新報に「何れか是、何れか非」の表題で掲載された記事に対する申し入れ、すなわち長文の訂正文が出た後に通告書を受け取ったものと考えられる。
 越佐新聞社は、「何れか是,何れか非」一昨4日記載せる本県歯科医師会総会の記事に対し、同会員、永井・白井両氏より左の如く訂正申し込み有りたり。としてその全文を以下のように掲載している。

『拝啓貴社第3051号御記載の本県歯科医師会臨時総会の記事は事実と相違あるを以て左の通り御訂正被下度候也。長岡市玉蔵院町 永井権吉
仝 表四之町 白井徳蔵  越佐新報社 御中
 天長の佳辰に方り(アタリ)県歯科医師会を開催するは不穏当なりとし、永井は一応会員一同に対し閉会延期を諮りたるに、多数者に容れられざりしを以て、自己の意見を朗読すべしとて起立したるに、石塚三郎は会長たるの故を以て、腕力をもって強いて永井の行為を妨害せり。時に白井は、開会を宣告せざる迄は議長なし、石塚氏は何故に永井の行為を拘束するや、とつっこみしに、二、三の賛否者亦之に加わりしかば、稍(やや)騒擾(そうじょう)の色ありしが、八百枝康三氏は起て永井氏をして朗読せしむべしと絶叫するに及び、議場大(おおい)に静謐(せいひつ)に帰せしを以て永井は左の意見を朗読して退席せり。』さらに『11月3日は天長節也。国民たる者は聖寿万歳を奉祝せざるべからず。然るに県歯科医師会役員の決議に基づき是の佳辰を期して臨時総会を開催遷都(ママ)するは明らかに我が国体にもとる行為也。特に其議題中非歯科医保護者に関する件の如きは明らかに法律違反若しくは其趣旨に反する不法行為を審議すべき不詳案件にして中良(ママ)(忠良)なる臣民の宜しく禁忌すべきものなりと信ず。仍てこの徴集に応ずる能はず。会員 永井権吉』

 右に関し何らの処置をあたへず(ママ)して石塚氏は、直ちに開会を宣告し、続いて議事にうつらむ(ママ)とせり。依って白井は緊急動議を提出して曰く、『徴集(ママ)に応ぜざる永井の行為は如何に之を処分せんとするか』と。竹内清平氏曰く、『事は簡単也、永井氏の行為を否認するか、若しくは当日の会を延期するか、二者其の一つを択ぶに帰すべし』と。白井更に主張して曰く『本日の開会は明らかに国体に反するものと認むるが故に当然起立を俟たずして延期すべきもの也』と。
 『茲に於てか論議百出し石塚議長は大いに狼狽し意に(ママ)(予想外のこと)妥協委員選定の為5分間の休憩を宣し委員会議の結果、永井・白井に対し無条件にて意見書並びに緊急動議の撤回を申し込めり。然れども是れ妥協に非ずして降伏を迫りたるものなるを以て断然之を拒絶せり。然るに八百枝氏は第2妥協委員として非医保護者に関する件を議案より削減して開議せんと申し込みを以て永井、白井も之に同意着席し議事進行して会議将に終局を告げんとせしに江川鈴弥氏は突如として起て曰く『非歯科医保護者に関する件を議長の専断を以て削減したるは越権の処置なり』と主張したるに、不思議にも先きに八百枝氏の妥協案を黙認し、永井の復席を容認したる多数者中、亦江川氏の主張を賛しし議長の失態を詰責したり。之に対し石塚氏は答弁して曰く『余は曩(さき)に狼狽の余り之が削減を宣したるも議事の法に反するものとせば、身を犠牲に供して其罪を謝し該議題を復活せ しむべし』とて更に議事の進行を謀れり。然れども是疑いも無く議長は前言を食みたるものなるを以て、永井、白井の両名は如此反覆常なく且つ不統一の議場に止まるは自ら快とせざる所なりと為し初志を主張して退席したり』と。

明治42年11月9日付「越佐新報」の記事

 11月5日付、書留便で発送した通告書は、11月6日か7日に到着していると思われるが、之を見た白井、永井の両名は、11月8日、石塚会長を訪問している事が石塚の日誌に記述されている。即ち『通告状に対し質問あり、自分等は渡辺氏の行為を善良なりと認めざるも、謝罪するは絶対的に拒絶す云々』
 一方石塚会長は、11月6日付、越佐新報「何れか是、何れか非」を見て次の掲載文を依頼したものと思われる。それは、明治42年11月9日の越佐新報に「歯科医会(ママ)の紛擾(ふんじょう)」と題して掲載された。

 『拝啓貴社御発行の越佐新報第3053号御掲載の永井権吉、白井徳蔵両氏より申し込み訂正記事は事実相違致居候に付更に御訂正相成度茲に議事録抜粋相添へ此段得貴意候也。
長岡市渡里町 新潟県歯科医師会長 石塚三郎 (印)
越佐新報社  御中』


 歯科医師会臨時総会開会前、会長が永井権吉の発案を制止したるは本会則第10条(会員に於て予め意見ある時は、案を具して会長に提出すべし)に違反したるを以てなり。然るに永井氏は更に肯(うなづ)かざるのみならず白井徳蔵氏は議席を離れ開会前なれば差支なしとて、会長を腕力を以て妨害せり。此の時杉本氏来たりて白井氏の非行を抑制するなど、議場騒然たるを以て、会長は永井氏の発言を許可したるなり。之に対し、会長石塚の処置を与えざるは、永井氏が一己(自分個人)の意見として陳述し徴集に応ぜざるを言明せらるを以て本会議事と何等の関係なきを以てなり、依って会長は一同の起立を求め開会前、両陛下の万歳を奉唱し開会を宣し議事に入らんとするや白井氏は徴集に応ぜざる永井氏の処分を如何にするやとの緊急動議を提出せるも賛成一、二名に止り将に消滅せんとするや本問題は賛否を要せず総会は延期するものなりと頑固の主張をなせし為め議論百出議場紛然たり、依て会長は5分間の休憩を命じ更に20分を延期せるも妥協せざるを以て再び開会を宣告し議事に入らんとするや八百枝康三氏議長席に来り非歯科医保護者に関する件を削除すれば白井、永井、渡辺の三氏は静粛に議事の進行をはかるとのことなれば速に採用せられん事をのぞむと懇請せり。
 これ明らかに白井、永井の両氏は言を天長節の佳辰に托し本会の開会を妨害し以て非歯科医保護者を保護せんと試みたるなり。
 茲に於て会長石塚は本日の騒擾(そうじょう)は、本問題に帰するとの事ならば延期若しくは取り消す事に致したとして重要問題に移り二、三を議了し将に閉会せんとするや吉岡熊蔵氏は会長に向ひ(ママ)非歯科医保護者の件は如何に処置せらるるやを問ふ、会長答ひ(ママ)て曰く非歯科医云々の件に就いて先刻の如き騒擾を来たしたる次第なれば徒に紛糾を重ねんよりは次回に延期せられんことを望むや。山本、真部、吉岡、江川の諸氏会長の延期意見に随うは遺憾且つ忍びざる処なりとて江川鈴弥氏起って、本問題は極めて平和の解決を望むものなれば茲に大略を説明せんと徐に陳述して本会会員中非歯科医を保護するものあり期界の為悲しむべき事なりと言うや、永井氏起ちて発言せんとす、時に真部氏、先刻永井氏は、本問題を議する以上は徴集に応ぜざるべしと明言しながら猶発言を求めるの権利ありや、を責むるや此時白井氏憤然席を離れ、渡辺浪江、永井権吉の2氏を拉し、喧々諤々提出者の説明を妨害したり。
 江川氏は再び言を継ぎ、3氏の行動を慨(憤慨)し、勢い看過すべからざるを告白し、非歯科医保護者は渡辺浪江なりと報告するや、白井、永井、渡辺の3氏は座して堪えざるものの如く脱会或いは退会を連呼して退場せられたるを以て満場漸く静粛に帰せり。
 「其れより渡辺浪江氏の処分は佳辰の本日なれば医員3名を挙げ警告改心せしむることとなし、只今の退場者の3氏は会則違反なれば処罰すべき処なるも是亦佳辰の出来事なれば会長より反省を促し謝罪せしむることに満場一致を以て可決したる次第なり」と詳細に臨場感溢れる文章で綴り、越佐新報への掲載を依頼し対峙した。

 石塚会長は、地元長岡市での所謂「天長節事件」の延長として、高田町(現・上越市)渡辺浪江についても平和的に解決を願い乍ら、渡邉浪江と同地区在住の副会長・江川鈴弥氏、評議員・倉地実雄氏、同・山本充義(みつよし)氏に協力を呼びかけていたが、なかなか難渋の連続であったようだ。
 即ち「11月7日、高田町・山本允義氏より渡辺浪江氏と10日に会見の事に決せし故、出岡(岡は長岡の意)すべしとの電話あり。依て10日出岡の準備致せしに、突然9日夕刻に至り会見を断る旨申し来る」と。
 それ以後日誌に記入された日付は、11月12日、13日、15日、16日、22日、とみな渡辺浪江についての記述で、要するに飽迄も会見拒絶の方針ならば最後の決心を定めたき旨の通牒を発した結果、会見する事に決定した。
 さらに石塚氏は日誌に「11月23日、午前11時20分発汽車にて出岡し、午後1時柏崎町(現・柏崎市)吉岡氏と合流、午後3時高田へ着。
 紀伊国屋へ投じ、高田町、江川、山本、倉地、来海の4氏と会合せり。
 午後7時渡辺浪江氏来臨。会談の結果「誓言書」を提供して謝罪せられたり。委曲臨時総会報告書に詳かなり」と。
 この事が,明治42年11月26日付、新潟新聞に「非歯科医問題落着」の見出しで次の様に掲載されている。

 「去る3日、長岡における県歯科医師会に於て、高田町在住歯科医渡辺浪江氏は、非歯科医と合同して開業し居れりとの事により問題を惹起し、結局委員を挙げ同氏に会見の上勧告することとなり、其後委員は数度渡辺氏に会見を要求せるも渡辺氏は其都度之れを謝絶せることとて、県歯科医師会をして最後の決心を採らしむることとなりしに、其の後渡辺氏も省る処あり、23日夜仝委員と会見の上、歯科医師会の勧告に応じ、非歯科医と関係を断つべきことを言明し、尚ほ其他の勧告に対しても善意を以って応ずる事となし、茲に円満に解決を告つぐるに至りたり」

明治42年11月26日「非歯科医問題落着」新潟新聞記事

5 天長節事件の結末 >>