神奈川県支部連合同窓会 学術講演会「近代歯科医学教育史から謎を解く」[2018年10月14日(日)、講師:金子 譲先生]

神奈川県支部連合同窓会 学術講演会

演題: 「近代歯科医学教育史から謎を解く」
講師: 金子 譲 東京歯科大学 名誉教授
日時: 2018年10月14日(日)
15:00~17:00
場所: 神奈川県歯科医師会館 地下大会議室
〒231-0013 神奈川県横浜市中区住吉町6-68
TEL: 045(681)2172
https://www.dent-kng.or.jp/

神奈川県支部連合同窓会 学術講演会「近代歯科医学教育史から謎を解く」 講師:金子 譲 先生(2018年10月14日)

金子 譲
東京歯科大学名誉教授

 平成30年10月14日(日)、東京歯科大学神奈川県支部連合同窓会主催で学術研修会を行います。
 現在の歯科医師という職業は我が大学の先人達の努力によって形づくられ、歯科医療の発展とともに公衆衛生活動を通じ社会に貢献する職業として確立されてきました。しかし、日本における歯科医師という職業が創られた最初の過程においては、先人達は国の思惑と時代の流れの中で翻弄され相当な苦労を背負わせられてきたと推察します。
 一方、日本における近代的歯科医学は開国後に来日した西洋人歯科医(米国人 W.C. イーストレーキ等)が横浜の外国人居留地で歯科を開業したのが始まりとされています。今回、現在の日本における歯科医療の発展と歯科医師という職業が形づくられてきた道程を、近代的歯科医学発祥の地である横浜において講演を主とする研修会として開催する運びになりました。
 明治時代の歯科発祥の近代史から現在そして将来への展望を踏まえて、振り返りと未来へと継なぐという内容で、東京歯科大学元学長、理事長であり、神奈川県人である東京歯科大学 金子 譲名誉教授ご自身が纏められている資料の中から、お話をいただきます。

東京歯科大学神奈川県支部連合同窓会
会長 西山 潔


近代歯科医学教育史から謎を解く
東京歯科大学 名誉教授 金子 譲

 「なぜ歯科は医科とは別なのか」「なぜ歯学部は東大や京大にないのか」と一般の人から聞かれませんか。さらに我々にも「なぜ官立歯科医学校の設立は遅かったのか」「なぜ戦前には歯科大学は無かったのか」と云う疑問が湧きます。
 今年は明治元年150周年を迎えます。明治元年から太平洋戦争敗戦までの帝国主義時代の「近代」は、近代化への制度整備と戦争の時代でありました。また、歯科医学教育に大しては、終始政府の支援は終始なかったといえます。なぜでしょうか。高等教育制度は明治中期から具体化しましたが完成したのは大正中期のことでした。高等教育機関を「大学」と「専門学校」の二重構造(上級と下級)とします。「大学は」教育と研究を、「専門学校」は教育だけと規定したので。当時高等教育まで受ける若者は稀であり、高等教育機関在籍者数と該当年齢者数との比は、大正4年1.0%、大正14年2.5%ですから、明らかに大学でも専門学校でもその卒業生はエリートでした。
 東京歯科医学専門学校の血脇守之助校長は歯科医学教育の最後の目標を歯科大学にすることでした。しかし、大正7(1918)年発令された官公私立に大学設置を認めた「大学令」では、医療系の歯科学・薬学・獣医学について大学・学部昇格を拒否しました。これにより血脇は大きな挫折感を抱くにことになりました。歯科の社会的評価はこの大学令が分水嶺となりました。歯科医師は大学教育が必要のない、つまり学術研究の必要がない職種で2線級(下級)エリートだと政府文部省が規定したわけです。どうして、そのようになったのか。大学令の基盤となった「臨時教育会議」答申から発令までの経過を綿密に追いますと、そこには文部省高級官僚の深慮遠謀があったと読み取れます。
 血脇守之助・奥村鶴吉の後半生はいわば専門学校を大学昇格させるための戦いでもありました。(1)血脇の欧米視察と米国の歯科医学教育改革(2)関東大震災で全滅した後の新校舎の竣工と同窓の大規模寄付(3)戦時下の教育審議会における官立東京高等歯科医学校島峰 徹校長の医学部新設による歯科専門医育成案(4)戦時中の大政翼賛会による医界新体制協議会での佐藤運雄日大専門部歯科校長による医歯一元化案(5)歯科医学専門学校校長懇談会における一元化運動と東京歯科医学専門学校・同窓の猛反発、そして(6)敗戦による旧制東京歯科大学誕生と教育刷新委員会での歯科医学教育6年制の獲得、ならびに市川病院の設立。これらの史実から、血脇守之助と奥村鶴吉が歯科医学教育を、即ち歯科医師の素養をどのように考えていたのか探索したいと思います。それによって上記の謎も解かれてきます。