済生,窮理の治法と血脇イズム ―司馬遼太郎著「胡蝶の夢」を読んで―(同窓会報第398号より)

済生,窮理の治法と血脇イズム ―司馬遼太郎著「胡蝶の夢」を読んで―(前編)/三友 和夫(昭和54年卒)
三友 和夫(昭和54年卒)

1. 校歌は血脇イズムの歌

 「医はこれ済生,ひとえに仁なり♬…」同窓会創立120周年のテーマは,この校歌の一節です。120年の歴史の中で同窓の胸を熱くし,感動を持って語られてきたものが血脇イズムです。なかでも昭和始めの校旗・校歌制定会,校舎建設の頃の学生には,この高揚感を強く感じます。
 東京歯科大学百年史 p.134には,学生が校歌の歌詞を北原白秋にお願いしましたが,なかなか歌詞ができてきません。そこで「全校の教職員,学生600人は,各自1枚ずつの作詞を促す葉書を白秋にしたため熱心に働きかけました。」北原白秋は「私は校歌をいくつも作ったが,こんなに感激して作ったことはいちどもない。この学校の人たちほど,こんな熱心な,猛烈な連中は見たことがない……」
 白秋は東京歯科の校歌をつくる時,はたと困ってしまったそうです。なぜなら「水道橋には何も景色などありやしない。」からでした。苦慮した後に「この学校において歌うべきものはチワキズムである。」と。したがって,東京歯科大学の校歌は血脇イズムの歌です。そしてこの頃の学生の精神の高揚感を表していると思います。
 というわけで,血脇イズムの重要な言葉として「済生」や「窮理」を考えるべきだと思います。しかしながら字面通りの「生命をすくう」,「理を窮める」ことでは学生の心に宿った熱い心は表現されていません。少なくとも違和感があります。最近,司馬遼太郎の「胡蝶の夢」を読んだところ,「済生」「窮理の治法」の心を熱くする意味について一つの「手掛かり」を見つけましたのでご紹介いたします。


2. 済生

2-1 蘭学と身分制度

 司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」は,幕末奥医師の松本良順達が長崎でポンペというオランダ人軍医から初めて西洋医学を体系的に学んだ話です。それまでの蘭学にとって,これは画期的な出来事で,幕末多数の人材を排出した適塾の緒方洪庵に「日本流の手さぐりの蘭方医学の時代は終わった」と言わしめ,塾頭の長与専斎と息子をポンペの元に送ったのです。
 この大阪の適塾に対して,千葉県佐倉の順天堂が東の蘭学の雄でした。佐藤泰然が1838年薬研堀につくった和田塾にその起源を発し,当時の蘭学取締りにより佐倉に移りました。この順天堂は外科手術が有名で,泰然の養継嗣佐藤尚中はこのポンペに学び,後に東大(大学東校)の初代校長にもなります。
 適塾が様々な人材を育成したのに対して順天堂は明治時代の医学界に大きな影響力がありました。胡蝶の夢の主人公の一人松本良順という奥医師は,この佐藤泰然の実の息子です。将軍の脈をとった松本良順を通して司馬遼太郎は幕府の身分制度の愚かしさと,この身分制度を打ち破る力になった蘭学の影響を書いています。

2-2 ポンペと済生

 長崎大学医学部の創立記念日は,ポンペが日本で最初に講義をした日とされています。ポンペの学校の末裔である長崎大学のサイトには次の通り書かれています。『ポンペは貧乏人を無料で診察し,侍町人,日本人西洋人の区別はいっさいしなかった。封建社会に育った門人達に医師にとってはなんら階級の差別などないこと,貧富・上下の差別はなく,ただ病人があるだけだということを養生所で身をもって実践し教えていた。…』このような実践が斉生と云われることのようです。
 蘭学ではベルリン大学のフーフェランドのEnchiridion Medicum「医学必携」を様々な人が,様々な部分を,異なる書名で訳していました。緒方洪庵もこの書を約20年かけて「扶氏経験遺訓」全三十巻を訳しました。この本の巻末の医者への戒めを洪庵は12カ条にまとめ「扶氏医戒之略」としました。これは医の倫理が論じられる時,現在も引用されています。
 また,「済生学舎(野口英世も学んだ医学校)は,フーフェランドの「医戒」にある言葉「済生救民」(特に貧しい人々を病から救済すること)を実践しようとした師である順天堂の佐藤尚中の精神)を長谷川泰が受け継いで開校したもの」です。従って,蘭学の二大潮流である適塾,順天堂共にフーフェランドの影響を大きく受けていました。済生救民の起源は蘭学そしてフーフェランドに求められます。蘭学を勉強していた松本良順たちも済生救民の考えを当然知っていたはずですが,その実践をポンペに学んだことは大きな感動だったことでしょう。

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